不出来なデューク

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 ブログを更新していないな、と思ったので義務感に駆られてブログを書きにきました。

※以下lainの話題ではないです。

 

 文化は迫害されるうちが花、なのかもしれないなと思った。オタクが迫害されていた2000年台前半には既に心身ともにオタクとなっていた高校生の私は本当に辛い時代を過ごしたのだけれど、今でも頻繁に思い返すのはその頃に視聴していた作品達である。たとえば04年には撲殺天使ドクロちゃんという、ある種の先天的な機能障害を持つ人間達をターゲットに絞ったとしかおもえない本当に酷いギャグアニメがあって、私はそれが大好きだった。今にして思えば、あのアニメは商売根性逞しくして作られた作品では決してない。当たればラッキー程度にしか考えていなかったんだけれど、その代わりナード的感性を包み隠さずに投入されたザ・オタク作品だったのだろう。

 一部の人間にしかウケない作品がいい、と言っているのではないです。迫害されるうちは人気がないから、変に権威というものが育っていない。オタクがオタクを楽しませようとしている。その雰囲気が私はいいと思う。

 迫害されたオタク達は、喧嘩するということがそれほどなかった気がする。なんせ迫害されているのだから、仲間同士でいがみ合っていても自分達が苦しくなるだけなので。

 しかし2006年ぐらいから、迫害されるオタクという構造が崩壊しはじめて、なぜだかわからないけどオタク文化は徐々に世間に受け入れられ、今では、特に若い世代は殆どオタク文化に抵抗を持っていない。きみの名は。という邦画を観に行った人ならわかると思うんですが、梅田のHEP5や難波の千日前を縄張りにしてそうなヤンキーなお兄さんお姉さん、イケイケなリア充系高校生が当たり前のように劇場に足を運んでいます。

 彼らの流入が許せないわけでもない。やはり文化は大勢の人間で楽しんだほうが絶対に良い。

 じゃあなにがだめかというと、アニメ界隈の人間が増えた結果、オタクの中にもいろんな分派が現れてきて、すごく些細な感性の違いを発端としてお互いがお互いを殴る世界ができてしまったこと。

 原初キリスト教ローマ帝国の国教となり、西欧社会の文化と融合して大勢の人に受け入れられていくうちに教会の東西分裂や権威の象徴であるローマ教皇が発生した史実が物語るように、ある共同体の人口が増えればそれだけややこしいいがみ合いが発生する。

 人間には似ている2つの存在の些細な違いをついつい気にしてしまう性質がある。そしてある場合には、些細な違いを過大に評価してしまって、それが喧嘩の元になってしまう。そこに権威の論理や数の暴力が加われば、物事はより一層ひどい方向に進んでしまう。

 こういう争いはあらゆるところに存在して、多くの場合は解決されずに膠着状態に陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 オタクが迫害されていた時代にはもう戻らない。もちろん迫害は大変悪いことなので、ないに越したことはないし、今のように堂々とガールズアンドパンツァーのあんこうさんチームTシャツを着て大洗に出かけられる世の中のほうがいいに決まっている。

 だけれど、迫害されていた当のオタクが、昔を懐かしんでしまう程度には、あのころのアニメには活力があったのです。