懐古
今年の気怠い夏の盛りに、きっかけは忘れたが、昔吸い寄せられるようによく赴いた西宮北口の街を十数年振りに歩き廻り、足の疲れを癒すために喫茶夢(ドリーム)に入店した。店前には朝比奈ミクル風のとびたくんが今でも寂れた格好で佇んでいた。店が移転したらしく、昔の広い店内とは違い随分とこじんまりとした空間に違和感があったが、カウンターの前には聖地巡礼MAPのパンフレットや聖地巡礼ノートが十数冊程度並んでおり、ここは当時のままなんだな、とずいぶんと憂愁に耽る思いだった。
店内には若い4人組のオタク風の男がいて、全員が煙草を、若さに頼ってチェーンスモークしていた。会話の内容から大学生だと判断できた。居酒屋で飲んで乱痴気騒ぎの末に徹夜した話、バンドを楽しんでいる話、最近のめり込んでいるハードロック風の音楽の話、もはや私が知る由もない若者向けのなんらかのアニメの話題。社会の陰惨な荒波をまだ知らぬ船出前の若人の屈託のない笑い声と将来と自分の人生に対する健全な無関心がその会話から容易に判別できた。彼らは十数年前の私なのだろう、と思った。嘗ての私も似たような会話を楽しんだ記憶があるし、背伸びして煙草を喫茶店でふかしたこともある。しかしそれらは全く今の私の内部に存在しない。あの頃の私は死んだのだなと明瞭に理解した。まるで過去の自分を遠くから眺めているような不思議な気分になった。あの頃から私は連続して生きているようにこれまで思っていたのだが、恐らくどこかで何度か、いつの間にか死に、別の自分となっていたのだろう。そしてこのような変化は、この先も起こり続ける。
過去を振り返り始める行為は老いの証拠となるらしい。人生は恐ろしく短いことをようやく体の芯から理解できた。涼宮某に引き込まれるようにして向かった苦楽園の坂道を、当時大学生の私は、そのときの大学の友人と二人で一緒に上った。あの頃の彼は寡黙な男であったが随分と楽しそうだった。あの頃も、うだるように暑い7月の最中だった。暑さに耐えかねて入った甲陽園の駅前のスーパーの冷気が天国のようだった。そこで二人でペットボトルを一緒に買って飲んだ記憶がある。今その大学の同期を、大学生のころから知っていたXのアカウント経由で十年ぶりにメッセージを送ると無視されたどころかブロックされた。理由はよくわからない。十年という歳月は、彼にどのような影響を与えたのだろう?それは私にはもはや知るすべはない。
無題
ニュースは次々と目の前を流れる雲のようなもので、それらの殆どは私たちにその意味を与えることなく静かに忘却の彼方へと過ぎ去っていくだけであるが、中には深く記憶の深層に、明瞭な形をもって、あるいは鉛のような質感を伴って留まりつづけるものがある。皆様にはそのようなニュースがあるだろうか。
私には二つある。一つは、もう20年以上も前の話になるが、NHKで、イスラエルのある家庭を訪問していて、相手は青い服を着たふくよかな中年の夫人で、非常になごやかな様子でNHKに応対していたのだが、スタッフが「ガザの人々は…」という言葉を口に出した瞬間に、夫人は顔にモザイクがかかっていたのだが、恐ろしいほどに感情的になったことが分かり、触れる事すらおぞましい何かがそこにあるようなしぐさで、「早くここから出ていけ!」という意味の字幕がついていたのだが、聞くに堪えない金切声を何度も繰り出し、それは恐怖の悲鳴のようにも聞こえたし、もはや制御できない憤怒の表出にも思えた。そこから、NHKのスタッフはなすすべもなく、後ずさりしながらその家の玄関を出ていくという内容だった。
もう一つは、数年前の、コロナが全世界を蹂躙する少し前の、夏頃のニュースで、これもNHKなのだが、ガザがまだ今の様に荒廃する前の、街としての体面を保っていた時代に、イスラエルが何らかの理由で、ガザに数発のミサイルを撃ち込み、ビルが無残に爆破されたのだが、その映像の次に、ガザで人道支援活動をしていると思われる壮年の白人の男がインタビューで写り、淡々と犠牲者の説明をしていたのだが、突然に顔がくしゃくしゃになって顔を手で覆い、男とは思えないほど激しい泣き声を発しはじめ、私はそれに見て、この男はガザで犠牲になった人間に対して心底に憐みと痛みを感じているのだろうと思った。もうそこから、どのような進行でニュースが流れていったのかは全く覚えていないが、とにかく、白人の立派な男があんなに悲しそうに慟哭する様はこれまでに見たことがないので、非常に強く印象に残った。あれから、あの白人の男はどうなったのだろう?ガザに残り続け、イスラエルの大量爆撃と地上侵攻の前に命を散らしてしまったのではないかと、今でも私は気になっている。生きていればいいのだがと。
安部公房は養老孟司とのインタビュー(数十年前の番組。youtubeで観れます)の中で、人間は自然科学に対しては大変に高度な能力を持っているが、その反面、文化政治的、つまり人間の関係においては途端に無能力になり、とても危ないものだと説明しているが私もその通りだと思う。今のガザの現状は、悲しくもそれを強く体現しているのではないだろうか。イスラエルは非常に精密なミサイル兵器と、他国の要人をピンポイントで攻撃できる高度な情報処理技術を保有している。一方で、その強力な力は内部的にはコントロールを殆ど失い、彼らの理性は憎悪によってその視野を失い、そして、もはや野蛮としか言いようのない本性をさらけだして、ガザで恐ろしい抑圧と殺戮の先駆と化している。まるで出口の見えない侵攻はこれからも多くの無謬の人々を殺害し、彼らの大地は呪われた血を吸い続けるであろう。
然し此の一方的な抑圧の関係はやがては崩壊するのだと思う。なぜならイスラエルを建てたユダヤの人々がそうであったように数百年に渡る弾圧はやがて淘汰圧となり、非常に力強い人々を生み出す遠因となる。そうすると、科学技術や軍事における相対的な優位性は段々と失われ、ある転換点を過ぎたときに、均衡し、やがてその力は逆転することになるだろう。一方で、ガザの人々はその積年の恨みを永遠に忘れる事は無く、衰えることなく保有しつづけることだろう。それだけではない。勿論、米国を背景としたイスラエルの絶対的優位も保証されることはない。この先、アフリカや中東の人口が膨れ上がる一方で、アメリカや西欧が衰退した結果として現れる国際政治力学的な構造の変化は必ずイスラエルに悪影響を及ぼすであろう。そもそもいつまでもアメリカはイスラエルにその頭脳を奪われているわけはないだろう。私は、このままイスラエル国家が権力や民衆の剥き出しの憎悪の前になすがままになっていれば、それはイスラエルを滅ぼす原因になると確信している。それを防ぐために必要になるものは、当然のことながら、軍事力による恫喝や弾圧ではなく、宗教的な対立や背景を越えて、憎悪を抑え、理性を以てして和平を築くことであろう。勿論、それが容易なことでないのは間違いない。憎悪は非常に強力な麻薬のようなものであり…人間の理性は容易にそれに屈する。しかし、数百年という歳月の中の人間の世代交代は、希望であると思う。死は希望である。なぜなら死は、底に堕ちた憎悪すらも忘却の彼方へと葬る為の唯一の方法だから。
中国合肥の思い出3
久々に合肥へ行ったので此処に記す。去年末の中国の対日ビザの要件緩和に伴い連日大量の中国人が来日するおかげで去年まで隔日便の合肥便が、なんと!毎日の運航となっていたので大変に便利になった次第、だが客室内はほぼ満席状態で隣の席のチャイニーズ女児は人様の足や座席を凡そ10秒間隔でリズミカルに蹴ってきたり、おもちゃの怪獣(翼があって、4本脚の獰猛な顔つきのドラゴンだ)でこちらを威嚇してきたりで参った。数年前までChina Easternの機内食と言えば悪名高き代物だったのだが、近年は随分マシになったというか普通にウマいと思う。今回は新鮮なフルーツにヨーグルト、日本風焼きそばが出てきた。中国人は日本人以上に騒がしいが嫌味にならないのが羨ましいと思う。人間はそうあるべきだし他人もそうあるべきだろうという楽観が彼らを支配しているからだろう。
合肥新橋機場の空は相変わらず黄色かった。此処のタクシードライバーは要注意で、メーターの数割増しの料金をaripayの入金欄に書くようによこしてくるのでメーターの料金はしっかり見ておき、必ず現金(毛沢東・人民元)で支払うのが良い。中国はすっかり電子マネー社会となったが公共タクシーは未だに毛沢東の牙城なのだ。因みに今回私はなぜか支払いでテンパり…タクシードライバーが何事かまくしたててきて、財布とスマホを交互に意識してしまい、タクシーに財布(100元毛沢東4人分と、クレカ入り)を落としてそのまま気づかずに下車してしまった。南無サン!放心状態でホテルのロビーでチェックインを済ませた後、非常に素早くホテルの部屋に直行し、必死の状態で中国から国内のクレジットカード会社に電話をかけた。海外でクレカを落とすと本当に焦るので皆様もお気を付けください。パスポートじゃなくて本当に良かった。
仕事の話を書きたいところだがコンプラ違反になるので今日も街中をぶらぶらした感想を。

合肥は省都と言えど、重慶や上海といった超大都市と比較すると二段ぐらい格は落ちるんじゃなかろうか。だがそんな合肥にもこのようにオタク文化が力強く浸透しており、大阪日本橋に引けを取らぬ奥行きを備えていた。典型的な中国のデパートは、あるジャンルの店舗でほとんどのテナントを占めており、例えば布団のデパートだったら、中の店数十軒は全て布団を売ってるし、子供のおもちゃなら(中略)すべて子供のおもちゃを販売している、といった具合。なので、オタク・デパートの内部もすべてオタクグッズショップなのだ。合肥にはそういうオタク専用デパートが数店舗あってアツい。

そんなデパートの階段がこんな感じ。凄いね。因みにコスプレしてる女の子は合肥の街を普通に歩いてる。オタクは中国に行った方がいい。

五条先生がいた。

スパイファミリーは中国で人気が高いらしい。

デパートの地下(食事街)をぶらぶら歩いていて適当に入った飯屋で食ったラーメン。どの店も四川料理屋っぽい麻辣っぷりだったので、一番安全そうな店に入ったらなんと湖南料理屋で…四川よりも辛い料理を出すことで有名な湖南省の料理なので、当然にクソ辛かった。メニュー表の写真はトマト面っぽいかったんだけどね。まあでも美味しかった。野菜はセロリとパプリカ。因みにタッチパネル注文だったんだけど全部中文表記で全くわからなかった中、店員の女の子が代わりにメニューを選んでくれて非常に親切だった。もう一回行こうと思う。
2日目は近所の公園をぶらぶら歩いた。


中国に行くと必ず出会う力強いスローガン
富強・民主・文明・和諧
自由・平等・公正・法治
愛国・敬業・誠信・友善
は当然公園にも掲示されている。みなさんは幾つ実践できているだろうか。
中国の公園の良いところは中年男性が平日の昼間に公園をブラブラしていたところで全く怪しまれないところだ。同じようにフラフラしている男性が大勢いるし、誰もそんなことに注意を払わないので。素晴らしいことだ。日本だったら通報されてる。
公園には、マラソンをしている老人、川に痰を吐きながら子供をあやしている母親、カンフー的な音楽に合わせて踊っている老夫婦、上半身裸でランニングする老人、遊具で遊ぶ大勢の子供がいて、どれもみな美しい光景である。あと、やたらといる清掃人の老婆達。中国ではこうやって老人の雇用を維持している。やさしい社会主義。

本場中国で食べてみたかった蘭州牛肉面。13元(=260円)だった。日本で食うと1000円ぐらい。スープと面の味は日本で食べるのとほぼ同様。ただ辣油が大変に香ばしくて本当に美味しかった。店員は回教徒っぽい帽子をかぶった男数人とヒジャブを被った女。初めて聞く言葉を話していた。ウイグルの言葉だろうか?

折角なので夜の公園も歩いた。
実は公園は夜のほうが賑やかだ。まず公園の入り口では、音楽に合わせて体操している大勢の女がいて、みな真剣なまなざしでインストラクターに従っている。その周りにはラケットでボールを飛ばしたり何か水鉄砲のような遊具を持った大勢の子供が遊んでいて、公園端の椅子には数人の老人が座り談笑している。公園にはマラソンをしている人や、犬の散歩をしている女、手をとりあって仲良く歩く中年の女二人組、やはり遊具に群がる大量の子供たち…夜のひとときを集団で過ごすというのが中国の人々の生活なのだろう。観光地では決して味わえない平行世界の日常は、海外旅行の最大の醍醐味の一つだと思う。
帰りは無事aripay水増し料金にひっかかることもなく帰宅することができた。
たぶん4回目もあるので、また次回、新しい合肥に期待しつつ筆を置く。
近況2
最近はインバウンドの多大な影響で、都市部の旅行には大きな出費と綿密な計画(ホテルの早期予約)が伴うし、かといって過疎地域の観光地には、私と同じようにあぶれた日本人たちが至る所に大挙して押し寄せているので、結局のところホテルや鉄道の争奪戦に必ず巻き込まれることが目に見えている。なので、今年のゴールデンウィーク(GW)も、地元から動かずに、ゆっくりと過ごすことにした。幸いにして地元の大きな湖は未だに外国人からも日本人からも忘れられたようにひっそりとそこに佇んでいるので、湖岸で魚を釣ったりマラソンをしている市民たち、そして湖に浮かぶ様々な渡り鳥達(全身真っ黒で嘴の根元だけ黄色い鴨のような鳥、鮮やかな雄の鴨、地味な雌の鴨、ガチョウ、白鷺、鶴のようなほっそりとした鳥、等々)をゆったりと眺めることができ、ようするにこの地域の美しさをあてに、GWを満喫することができた。この湖の美しさは、そこの近くに住んだ人間以外にはわからないものなのだろう。それゆえに、この湖は、地元の人々で独占することができる。私はこの湖を、都会の誰にも知られたくない…
公園をふと歩いていると親子連れの少年に突如話しかけられた。このようなイベントは何十年振りだろうか?私はただ池のほとりに咲いていた黄色いハナショウブをゆっくりと眺めたかっただけだったのだが、少年に合わせて会話をした。クワガタムシをさがしていたんだよ。クワガタムシはぼくも探しているよ、あっちでみかけた。どんなクワガタムシ?コクワガタ。コクワガタはかっこいいね、あっちのクヌギを探してごらん、立派な樹だから、夏になるときっと一杯クワガタムシが獲れるよ。少年に付き添いの母親と思われる女は、すいませんねえ、と愛想笑いをしつつ、早くこの中年の男と離れるための算段をつけているように思われる。しかし少年はお構いなしだ。恐らく、長い間同胞を探していたのだろう。私はといえば、母親との関係が気まずかったので、女の意見に暗に同調して、なんとか少年と距離をとろうとしたのだが、母親から引き離されてもまたこちらへ駆け足でやってきて少年は私と会話をする口実を探し出そうとする。クワガタムシならこの間あそこでとったよ。こっちの木にきっとクワガタムシが居る!土の中にいるよ!そうやって土を掘る。ここは公園のグラウンドなので、クワガタムシなど居るはずもないのに。捕まえたクワガタムシはどうするの?採って、そのまま離してあげるんだよ。なんで離してしまうの?かわいそうだから。母親が愛想笑い。この子はね、すぐに捕まえた虫を虫かごにいれて、家にもってかえってしまうんですよ。母親から5度目の、「ありがとうございました」という挨拶を聞いた後で、ようやく私のほうから、おにいちゃんはそろそろいかないとだめだから、さよなら。という挨拶をして、少年のクワガタムシ談義から解放されることができた。
帰宅してからこの少年との会話を反芻すると、かつては見知らぬ第三者と、夕暮れの公園や、緑の映える森の中、それから太陽が反射する公園の池の光の中で、ムシの話をしたような気がする。かつて私が少年だったころ、ギンヤンマを捕まえに、入ってはいけない公園の池に初めて会って意気投合した子といっしょに入って、管理者の男にめいっぱい怒られたりしたのだ。少年の会話は、その文脈の中にある。最近は、そういう機会がめっきり減った気がする。私以外の、だれもがもそうだろう。街を見かけてみても見知らぬ人と会話している人間はいないように思える。都会では会話は金で買わなければならない。たとえばコンビニの「あたためますか?」。ホテルのカウンターの「アニメティは、あちらにおいてあります。エスカレーターは、こちらです。ごゆっくりお休みください」、それから、レストランの会話。金を払えば払うほど、洗練された、気の利いた会話を私たちは得ることができる。だが、それだけだ。お肉はご希望通りの加減で、美味しく焼けていますか?これは先日ステーキハウスで、テーブル担当のお姉さんからもらった言葉だ。しかし、純粋な好奇心のためのムシの話など誰も私にはしないだろう…あの少年を除いては。
話をかえよう。
GWの最中に「100年戦争」という中公文庫の新書を読んでいたのだが、色々面白かった。まず百年戦争の舞台は1300年代、丁度日本人が暗黒時代と揶揄するあの時代なのだが、実は全くそうではない、という点に気づかされた。例えばみなさんも日本の戦国時代を思い浮かべていただけるとお分かりになると思うが当時の日本の戦争行為は武将(所謂軍事貴族階級)によってのみことが運び、そこに市井の農民や平民階級が関与する余地は全く無いのだが、一方、中世の西洋の戦争においては実に多くの人々の利害をくみあげる場があったことに気づかされるだろう。例えばアンジュー地方やブルターニュ・ガスコーニュといった英国と仏国の王の領土が複雑に絡み合う地方においては、そこにある街はどちらの側の君主を受け入れるか、という点について多大な発言力があり、また双方の王はその意見を尊重しなければならないというルールが存在した。また、三部会という、平民階級と聖職者階級、王侯貴族が互いの利害を確認し協議する場が設けられ、戦争の当事者として当時の市井の人々がかかわる場が存在した。それから、戦争の休戦協定においては、仲介者として遠くイタリアのローマ・カトリック法王庁から人が派遣され、仲介を行っていたという事実で、要するに西洋では戦争が高度な対話の場として機能していたということが分かる。
最も驚くべきことは英国と仏国の関係で、当時は英国王が仏王の諸侯の一人として扱われていたり(英国もそれを黙認していた)…つまり大陸にある仏領の中に、諸侯としての英国王の封建領土が存在したり、そんな中で英国王が仏王位を要求したり、嘗ての仏王位の家系から英国王が排出されたり、その逆で、英国王の家系から仏王が現れたり…といったように、非常に複雑な統治の構造があったことがわかる。勿論このような中での利害調整は至難の業だろうし、そのために人々は協議に明け暮れていたはずだ。要するに西欧人は相対的な自分たちの立ち位置を把握し、絶えず敵対者と会話をしてきたということになる。100年戦争においては、その戦線が拡大すると双方に危機意識が生まれ、なんとかそれを収束するように休戦協定を交わしたり、相手に人質を送ったりして、コントロールしようという努力がある。これは他地域では決してみられない統治の形ではないだろうか?力による支配の限界と、敵対者とすら深い対話を行うことの重要性を彼らは認識していたように思う。すこし飛躍するかもしれないが、このような下地があって、後々のルネサンスに見られる高度な美術、そして科学技術や産業革命の母体としての西洋が誕生したのだろうということがよくわかる内容だった。決してあの時代は暗黒時代ではない。なかなか面白い本だったので皆様もご興味あればお読みください。
近況
twitterのアカウントがBANされてしまったので、最近はすっかりSNSから遠ざかってしまった代わりに日記を書いたりする機会や、外を散策して春の目覚めを感じたり小説を読む時間が増え、twitterで失われていた時間が何らかの能動的な、良い時間に生まれ変わっている実感があり、まあ悪いことばかりではないけど、一方、昔からつながりのあったフォロワーの中には、twitter上でのみ関わりを持っていた人が少なからずいて、彼らとの関係が絶たれてしまったことを考えるとBAN自体は総合的にみて良くないことだったと思う。SNS断ち(というかコントロール)はBANされなくてもできたはずなので。ちなみにBANされた理由は、あくまで推測でしかないが、コミュニズムに関する肯定的な意見と、イスラエルという国家(※ユダヤ人の市民ではない)に対する明確な嫌悪を軽率にも表出してしまったことが原因と思われる。それらは心の中に閉まっておくべきだった、というよりアメリカ製のSNSに書き込むべきではなかった。…つまり一連のBANは現在のアメリカの急激な変革が、私のアカウントという社会の超末端にまで遂に浸透したことを示していると思われる。だが希望はある。おそらくだが、イーロン・マスクが失脚し、twitterに青い鳥が戻ってきたときに私のアカウントはきっと解放されることだろう。そのときまで今のアカウントは消さず、静かに見守り続けようと思う。20年、30年後の春の目覚めを期待して。なお親愛なる皆々様方に置かれましては、念のため、twitterで上記のツイートは極力控えることをお願い申し上げます。
せっかくなので最近読んだ小説で良いものを一つピックアップさせていただく。井伏鱒二の「山椒魚・遙拝隊長 他七篇」(岩波文庫)。きっかけは偶然読んだ大江健三郎の講演記録の中で彼が井伏鱒二を絶賛していたところから。大江はド左翼もいいところなので皆々様方の彼に対する評価は、はるか海の底から富士山のてっぺんまで色々あるとおもうが、小説家としての彼は大変な巨人だと思う。さて井伏鱒二についても、一介の些末な読者の私が評すなど恐れ多い話ではあるが、彼もまた小説家の巨人、天才だと思う。山椒魚は非常に有名なので割愛。遙拝隊長というのは外地マレー半島で傷痍し気狂いを得た陸軍士官(中尉)が内地の故郷の村落に送り返され、戦後も人々に多大な迷惑をかけるという話で、当時の日本陸軍の異常性を強烈な程に皮肉った作品である。戦後の牧歌的で抑圧から解放された村落の風景と、人々に陸軍言葉で怒号を繰り出す元中尉の強烈なコントラストは、物悲しい虚しさを誘うが、同時に滑稽な面白さを引き出している。読む人によってこの中尉に抱く感情は色々あるんじゃないだろうか。小説が好きな人はまあ一度読んでみて下さい。
ところで上記の岩波文庫、近隣の図書館で借りてきたのだが、まあ1ページ当たりの文字が多いこと。あと単純に値段が安い(裏表紙に書いてあった)。個人的には1ページ当たりの文字の密度が高い方が重厚で高級な感じがするのでうれしい。最近の小説はページ数を増やしたいがために文字を大きくする傾向があるとおもっていて、私はそれは良くないと思う。どこか安っぽくなってしまうのだ。勿論大きい文字は老眼の人に対しては優しいので、私ももっと歳をとれば、己を反省し、意見を翻すかもしれないが…しかし、本は気高くあってほしいね。
以上
パウル・クレー展
パウル・クレーの絵を観るために愛知県の美術館へ行ってきた。パウル・クレーの名は7年程前に「つくみず」という私の敬愛する病み系イラストレーターがtwitterで静かに言及していたことをきっかけに知り、それから長らく興味があったのだが、日本で少なからずコレクションしている美術館が唯一宮城県にあることからなかなか直接拝む機会を得られなかった。この度近場で特別展が開かれることになり、躊躇なく事前チケットを予約した。※関西人にとって、東北は海の向こうよりも遠い。

今回は講演会にも行ってきた。パウル・クレーはマイナーな作家やろと高を括って遅めに入場したのだが、会場には大勢の人が居て、みな真剣に学芸員の話に耳を傾けていた。
学芸員の話。両親は共に音楽家。スイス郊外のベルンで生まれる。ピアノの腕もプロ級だったらしい。ミュンヘンのアカデミーを受験する過程で私学校で人物画を習う。その時の絵がプロジェクタに表示。途中で彩色を放棄された女の横顔の絵が写る。パウル・クレーは人物画が好きじゃなかったみたいだ。青年期の絵の一例として、コミカルで戯画的、そして丁寧に書き込まれた風刺画。次の風景画は一流の画家が描いたように繊細だった。当時の人間は良く旅行にいったらしい。パウル・クレーはアカデミー退会後にチュニジアに滞在して、そこで絵の天啓を得た。云々。次に大きな転機となるのは同じ会派(青騎士という格好いい名前)に属していた同僚マッケの戦死。彼が青年期を過ごしたころに第一次世界大戦が始まり、ドイツがロシアに宣戦布告した。そこでパウル・クレーは戦場となった街の瓦礫の山の中からキュビズムの着想を得て、当時の前衛芸術を牽引する画家へと育っていく…
時代と共へに変遷していく画家の絵が確かに時代と連動して生き物のように変化していく様を見るのは面白かった。クレーはキュビズムだけでなくシュールレアリスムにも影響を受けていたらしい。
晩年の、病気で苦しめられたクレーの絵はどこか悲壮であるが、しかし絶望の深淵へとただ誘われるように分け入っていくような暗い性質ではなく、どこかふっきれたような、派手な色彩と大胆な構図があり、この人は天性の画家なのだなと思った。一流の仕事においては自己の恐ろしい苦しみすら成長の題材となる。学芸員の話に熱が入っており1時間30分予定講演修了だったのが1時間50分ぐらいまで延長されていたのも良かった。会社や学会ではこうはならない。


展示のほう。
写真OKなのが良かった(一部、撮影禁止あり)
直近で観ると油絵がものすごく丁寧に塗られているのが印象的だった。画家によっては 表面が絵具で激しく凸凹になっているような力強い作品があったりするのだがパウルクレーには一切それがない。どれもつるつるにならされている表面。マグリットの塗りを彷彿とさせた。唯一、戦時中に襤褸衣の上に描いたと思われる絵だけは素材が素材だけに凸凹していた。
感銘を受けたのが、街の一風景を描いた風景画。近くでみるとオレンジと灰色、緑色の正方形長方形の羅列なのだが遠ざかると面白いぐらい街の風景に返信したのだ。ただ、箱が並んでいるだけなのに!こういう事例がクレーの作品には多い。近くで観る作品が、遠目で観ると別の作品に化ける。こういう経験は今までにないな、という点でパウル・クレーは非常に神秘的な画家だと思った。

ちなみにどの絵も小さかった。パウル・クレーは根が丁寧な作家なので、時には大胆に塗らなければならぬ大判画を嫌ったのかもしれない。
クレーの代名詞ともいえる正方形の絵は、彼の地位が確立した後半期にかけてかかれたものが多く、それまでは色々な雰囲気の絵を試行錯誤の中で次々と描いていこうとしてたのだな、と思った。探究者だったのだ。
当然のことながら美大も出ていない、絵を少しネットで齧った程度のぺーぺーの身分では大部分の作品は理解不可能だったが、ただ一点、絵は非常に上手いんだな、という点はどの作品をみても非常によく伝わってきた。ただの正方形のあつまりの小さな絵が、まるで写実のようなルネサンス期の大家の、一面に広がる大作と同じような感動を持ってもってそこにあるのだとしたら、それは奇跡以外の何物でもないのだろ。彼ら前衛画家には何が見えていたのだろうか?
次は兵庫県でも第二弾が開かれるので、また参加してみたいと思う。
愛知回は3月半ばまで開かれているので、そちらも興味ありましたら是非行ってみてどうぞ。
中国合肥の思い出2
仕事でヘマをやらかして再び合肥へ旅立ったので記念に此処に記す。青空が広がる関西国際空港から僅か二時間で靄がかかった黄色の空を戴く合肥の都市へと辿り着く。しかし時刻は夕刻を控えているので、機場の出場口で出租车を探す僅かの間に、周囲は暗闇に包まれてゆく。あの空は黄砂が映す景色だろうか?あるいは経済成長の象徴だろうか?高速道路を走る出租车の窓から見える大陸の街は大きく、摩天楼がコピペの様に連なり、堂々とした中国語のネオンに輝く看板は卑小な人間すべてを無言で威圧するようだ。その摩天楼の多くは高層住宅である。東京に聳える最先端の長大なビジネスビルと同じ程度の規模の住宅ビルが、一面に一様なベランダを抱えて、数十×数百のマトリックスを作り出している。いや、数百×数万かもしれない。そのうちの一つに注視すると、奥には薄暗い明かりと、冷蔵庫、洗濯物、観葉植物、掛物、書棚がうっすらと見える。私が最近知ったこの街には数十年も昔から大勢の人々がこのビルの中に住み、生活を少しづつ蓄積させている、と考えると不思議な気分になってくる。中国で得られる重要な体験の一つは、己は卑小な存在である、と自覚することにあるのではなかろうか?僅か二時間の距離だが、其処には巨大な隔たりがある。日本の会社の狭いオフィスで自我を拡張しつづける自分と、脆弱で実に取るに足らない異邦人である自分との間の距離。あるいは、マトリックスの中の自分。
ホテルのフロントは気さくな若い眼鏡の男で、黒のスーツを丁寧に着こなしていた。中国語訛りで品の良い英語を、若者は平然と使いこなしている。私は片言の、失礼な英語で応答する。それしか話せないからだ。悪気はない。二十七階建てのホテルの部屋は僅か一泊500元程度だがクイーンサイズのベッドが中央に控えていて、扉を開けるとハンガーは10台程度用意しており冷蔵庫の中にはペットボトルが4本。日本のビジネスホテルの暴利と脆弱なサービスに日々晒されていると、こういう潤沢な真のサービスは心の底から有難いと感じる。

翌朝の大陸の街の雰囲気。

以前来たときには在った二次元アイドルの堂々とした広告は中華料理の広告に塗り替えられていた。
星巴克(スターバックス)の店内で仲間とスマートフォンで遊ぶ若者の姿は日本人と何も変わらない。そこらの店先で大道芸をやっている小姐姐は相変わらずだった。シンバルを叩く、踊りを披露する、マラカスのような楽器を鳴らし続ける店員達。中国人は煙草が好きなのか、至る所で路上喫煙者を見かける。若い人間が旨そうに嗜んでいるのだ。そういえばモスクワも喫煙者だらけだったなとふと思い出した。


萌え文化は相変わらず健在だ。特に初音未来(ミク)は日本が中国への輸入に成功した代表的な事例だろう。日式偶像は.着実に海の向こうで根付き、人々に愛されている。仮に、日本人がある日突然世界からいなくなっても、ここに墓碑銘があるのだ。

翌日は明教寺という合肥では恐らく有名な仏教の寺院へと足を運んだ。寺の目の前には、乞食の白髪の老婆が這いつくばって、金を求めており、公安の男がやや困った顔をして付き添っていた。
寺の内部に入る際に、中国人は皆謎の赤札を係員に預けていたが、外国人の私はフリーパスで入ることができた。寺の内部には狛犬めいた象が鎮座し、大量のお香が炊かれていた。実に雅やかだと思った。中国人の敬虔な女の信徒が、大量のお香の束を手に取り、宙に煙を焚きながら、四方に向かって深くお辞儀をしていた。寺の内部には黄金の仏像が鎮座していて、それらは日本の様式と非常によく似ていた。此処では遂今しがたまでスーパーの店員をやっていたと思われる身なりの小姐が、宗教的な威厳を完璧に従え、念仏を淀みなく吐いており、その念仏が実に心地よく、ずっと聞いていられるほど人を魅了するものだった。日本のよく訓練された坊主と、この中国の市井の女の念仏に対して、音だけ聞いてどちらが本物の読経かを判断しろと仮に言われたとしたら、恐らく大勢の人は、中国人の方を躊躇なく選ぶであろう。
他にも大勢の人が寺の内部にいた。ちょっとした休憩所で大勢の老若男女が静かに語り合っている。寺の内部はほかにも、仏像が鎮座し、大勢の人が拝んでいた。観光でちょっと顔を出しました、という人は私以外誰も居なかった。皆敬虔な仏教徒だった。
寺の門前や、仏像が鎮座する御堂の側面には中国共産党のスローガンが高々と掲げられており、この寺が政府から認可されたものであること、宗教に関する法律はどのようになっているか、ということが書かれているであろうポスターが至る所に貼られていた。そして、中国の国歌「義勇軍行進曲」の楽譜が堂々と飾られていた。この国は宗教勢力を越えて共産党が支配していることを如実に表している。


ところでこの合肥の地は、清末の重要人物、李鴻章が生まれた地であり、その邸宅が今では博物館として保存されているのだ。見学は自由であり、外国人は入口で記帳するだけで入場することができる。内部の展示は李鴻章の功績や経歴、家系図、それから清末の中国の発展が描かれていた。中国においても清末は富国強兵の時代、誰を西欧に遊学させて国防や先進技術を学ばせ、国を発展させたかということが煌びやかに描かれていた。国が変われどどこもやることは同じなのだなと思った。李鴻章は日本人にとっては当時の敗戦国の人であり、下関条約で屈辱的な条約を締結した人だが、中国人にとっては英雄であり、汚すことは許されない存在だ。
内装は古典的な中華窓や中庭の庭園が美しく、実によかった。
博物館の中には大勢の人がいたが、特に目に付いたのは、つい今しがたまで夜の街を歩いてたと思うような女が熱心に博物館の展示に見入っていたことで、それが1人2人ではなく大勢いるのだ。中国人は並々ならぬ勉強熱心なのだろう。

今回は夜の街も歩いてみた。合肥の夜は実に賑やかで、新宿や難波の繁華街のような人の流れが至る所にあった。その日は何かイベントがあった様子で、上の写真をみていただくとわかるように、コスプレイヤーが平然と街を歩いていた。日本のオタクイベントと何ら変わらない風景が、この合肥の街にも存在している。またしても私は日本人の墓碑銘を発見したのだ。街中では屋台が繁華街の道路脇に大勢設置され、臭豆腐、新疆風串焼、饅頭、拉麺、タピオカミルクティーが売られていた。他には百足の串物や蚕の蛹の揚物も売られており、これに手を出している人は殆どいなかった。
街はずれを歩いてみると、ギョッとするような光景があった。店先に、肉塊となった羊、あるいは牛がぎっしりと並んでいたのだ。太腿、あばらの部分、何所かわからないが巨大な肉塊。道路脇には肉がこびりついた巨大な背骨がいくつも転がっていて、洗面器のような箱に羊の頭が、7-8頭程度、皆眠るようにしてそこにいた。店先では丸太で作ったまな板の上でヒジャブを被った褐色肌の女が無表情で肉を捌いていて、店の内部ではスーツ姿の身なりのよい老人があばら骨の肉塊を手で触れながら丹念にチェックしていた。その横の路地でで新疆風のデザートやナツメヤシの実(デーツ)を売る彫の深い男が居て、恐らく新疆からはるばるこの地までやってきたのだろうと思った。ちょっとデーツを眺めていると、しつこく勧誘し始めて、この商魂の逞しさはトルコ人やアラブ人に近いなと感じた。この空間においては、明らかに日本の衛生観念は埒外の存在だった。日本では工場によって隠ぺいされたものが、中国では剝き出しのまま街の中にある。

街を歩いているうちにあっと言う間に最終日を迎えてしまった。
また次の合肥で新たな発見があることを祈る。以上。