サポロ・レヴァリューツィヤ(1)

シンゾ・シンタロヴィチ・アベノフ共産党書記長は、例の如く、慎重さと鈍重な威厳が絶妙に入り混じった制止と抑揚を意識して明瞭(はっきり)とこう云った。

「ですから、同胞アイヌ民族人民はですね、偉大なる革命の根拠であるソヴィエト連邦の宗主権をですね、これははっきりと、力強く、確かに認めたのであります」

記者会見の席がざわめく。日本民主社会主義共和国独特ののっぺりとして積極力の欠ける鎌と槌の腕章を身に着けたやせぎすの若い記者が、全く似合っていない厚めのネクタイを無意識にひんまげて、泡を吹いた顔を青ざめながら書記長の頬にある強い豊齢線の刻印を睨むように凝視していた。頭の中にはキリル文字で表現された借り物の言葉がひしめいている。なぜ?なぜ?という反芻。勿論彼らは漢語という堅牢な思考を軸とする和人の馴染みの言語をとうの昔に消失しているのでアベノフ書記長の言葉もこのやせぎすの記者も近代ロシア語を基礎とした寒々とした冷酷な思考の中で生きている。

記者たちの長い動揺のあと、緊張した面持ちで社会党バッチを誇らしく身に着けた肌の黒い壮年の記者が、コミュニスト独特の堅苦しい礼節を保ちながら、まるで上長に対する慇懃無礼さを前面に押し出した敬礼のあとに書記長に質問を行った。

「それでは、サポロやオタル、あるいはアバスリツクの我が同胞達の処遇は…」

書記長の顔が歪む。

「それは、それはですね…西国の憎むべき敵国、あの、かつて天皇陛下、と呼ばれたですね、ブルジョワをかくまう、反逆分子共に聞けばいい!」

アベノフ書記長の声色が、確りと変化した。

まるでかつての同僚、アソ大日本帝国首相に対する強い怒りを借り物の支配者が牛耳る言霊に纏わりつけて。

 

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 サポロの市街にはアイヌ独特の青の幾何学模様を彩どった美しいレリーフが、わずかな吹雪の舞う街灯に照らし出され、暗雲なモノトーンの街路に微小の滋養を与えている。局所的に見るとこの美しさはアラビアの荒漠とした大地に立つ荘厳な純正のモスクをも彷彿とさせる。

 「なァ、これははっきりいっておくが、同志、君は私に対して合計にして10000ルーブルの借りがあるんだ、これだけあればカーシャにシチー、それにウズベク人の調理する豪華なプロフをどれだけ腹に詰めることができると思っているんだ?私のお腹はこの通りペコペコだし、これからもそれだけの御馳走にありつく算段はないんだ、つまり君に拒否権はない」

派手なオレンジのウシャンカを深々と被って眉全体を対面者から意図的に隠し、背丈に似合わぬ大柄の濃紺の外套を深々と羽織った少女は少女らしからぬ確信と尊厳に満ちたまなざしで瓶底眼鏡の青年を糾弾していた。

「そんなことは…できない」

青年はため息を無意識の降参の合図としつつも言葉の上では抵抗する。

極東ソ連人民鉄道サポロ・スターリン記念駅(スタンツィヤ)前に広がる大広場プロシャーツィ・アイヌィの中央には対日戦争を勝利に導き、かつて北海道と呼ばれたこの大地を和人の支配から解放する契機を掴んだ"偉大な海軍人"ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストウェンスキー大将、バルチック艦隊司令官の銅像が堂々とした威風を奏で、駅前を通過するアイヌと和人で構成された人民を強圧的に見つめて続けている。中将の足元にはかつて和人が期待した男トーゴ―・ヘーハチロフが情けない恰好でひざまづいている。

共産主義様式を忠実に踏襲した大広場を帝国主義的権勢に死ぬまでしがみついた軍人が支配する奇妙な空間に溶け込む形で、そして、まるで魂を放棄した和人を証人にする形で少女はまくしたてる。

「お前はかつての日本語が話せる、ただそれだけなんだ、たったそれだけのことだが、非常に重要なことだ」

少女は北方アイヌ独特の涼しい青色の瞳で少年を射抜く。

少女はもはやこの極北の大地では絶滅したと思われた日本語を駆使して少年の魂を駆動させようと躍起になっている。ロシア語が公共語となったアイヌ・ソヴィエト社会主義共和国において日本語は名目上は保護されていたが、大地の人々は時の趨勢に呼応するようにかつての言語を捨てソヴィエト連邦の人民と同化する道を選んでいた。

「それと、アバスリツクがどう関係があるんだ」

「そうだな…わかっているじゃないか…ちょっと、そこまで一緒に歩いてくれないか」 

冬のサポロは生存に不向きだ。ロシア人も、アイヌ人も、和人も魂を永遠に凍らせる覚悟でこの土地にしがみついている。

 

未来へ、革命へ、そしてジュガシヴィリへ

 

というプロパガンダが至る所に施されている。たとえばそれはモスクワ様式の高層ビルの側面を覆う形で、またはシナゴーグ正教会あるいはテラ・シュリンのレリーフとして、そしてピーツ煮込みスープ(ボルシュ)宅配サービスセンターの広告としてみることが出来る。

 少女の背は高い。少年の頭の天辺が少女の肩をしめやかに隠す程度だ。この女の血脈はバルカンやロシアの雪原から遥々と何世代もかけて極東にあるこの島国へ届いたのだろう、と青年は思った。スラヴ系コーカソイド独特の深い眼窩とやせた頬、狼のような鋭い視線、そして突き出た鼻梁がそれを裏付ける。

 「…悪いことはしない。ただ、ちょっと不安にさせるかもしれない。それだけは事前に伝えておく…逃げないでほしい…」

先ほどまで強気だった少女のそれとは思えないほど譲歩された交渉内容に青年は戸惑った。少女の目を確かめようにも、青年の頭にも深々と食い込んだウシャンカがそれを阻む。

足取り自体は冷静に、ゆっくりと、そして確実に雪原さながらの側道を進行している。少女の足取りは確かにアイヌであった。和人はこのようにまるで日常の狩猟に赴くような足取りで雪道を進むことができない。兎(イセポ)や羆(キムンカムイ)を狩猟するごとくの進軍に青年は再び戸惑う。中央道は車道があって時折重厚な戦車や厚い装甲で武装されたトヨタ・オートモービルがゆっくりと黒煙を巻き上げながら鈍重に走行している。煙は鉄さびの粉塵のように重苦しく明瞭な質量があるようだった。本土の自動車とは明らかに異なる世界からやってきたのだと青年は感じた。

少女の口数は少ないながらも青年を安心させることに集中しているような姿勢が伺いしれた。生まれは?そうか、オカヤマか。有名な日本の神話があるクニだろ。タオニャン、だったか?酒は飲めるか?蒸留酒(ウォッカ)や麦酒(ピーヴァ)じゃなくて、本物のコメサケだ。どんな匂いと味がするんだ?和人は魚が好きだからな、きっとそういうのに合うんだろう…

 30分ほど経っただろうか、堅牢な大理石の建築物は相変わらず大通りの左右に展開されているが人影は大広場と比べてずいぶん減少し、殆ど人とすれ違うことは無くなった。

 サポロは日本統治時代に人工的に開発整備された街で、アイヌ国がソ連邦構成ニ十ケ国の一角となった現代においても路面はその形態を守り続けている。もともと碁盤目上の計画都市はソ連人民と親和性が深く、このサポロの街が整然とした純モスクワ風の都市に整備されるまでに時間はかからなかった。

いくつかの直角に交差する通りを右に左に曲がって少女の横を捕捉しつつ着いていくと、土地勘のない裏路地にやがて辿り着いた。

「知ってるか?なぜ、トーゴーは敗北したのか」

 少女は唐突に切り出す。

トーゴーは間違った決断をしてしまったんだ。ロシア帝国バルチック艦隊が香港からツシマ海峡を直進するか、それとも太平洋側からツガル海峡を迂回するか。その賭けに負けた。トーゴーはひどく常識的な判断をした。つまり、接岸できない状況下で敵国の長大な海岸線の索敵網にかからず迂回に成功し、ウラジオストクへ入港することなど不可能だと思っていたんだ。バルチック艦隊は遥々クロンシュタットから喜望峰を経由し極寒と灼熱の航海を経験し、数か月かけて極東に辿り着く。長い調整不足で船体の航行速度と大砲の練度は落ちていて、水兵の士気はまさに下り坂のどん底だろう。そんな中で思い切った迂回の判断はできない。ツシマを必ず通る。そう思ったんだ。真っ当な判断だ。だが、だからといってそれが賭けの勝利を担保する手段には決してならない。和人は、そういうところが抜けているんだな。賭けの本質を理解していない」

少女が言い終えると、裏路地にあるされびれたウォッカバルのドアの目の前にいた。

「ここへ」

少女がドアを開くと、ガソリンの匂いと、熱風、そしてアルコールの臭気が顔に飛び込んできた。

(その2へ)