島田荘司「占星術殺人事件」

 本作の登場は私が生まれる少し前にまで遡ることになるが、私がこうやって手に取るのはそこから43年も過ぎた現在である。小説は、そういうところが面白いと思う。媒体の性質として流行に疎い。そうやって人と作品を長い年月を隔てて容易に結び付ける。

 奇しくも本作を彩る大事件も、小説中に於いて43年前に遡ることになるらしい。

 「占星術殺人事件」のトリックはミステリファンの間では非常に有名であり、私も実は過去にネタバレに近いものを踏んでしまっているので、長らく忌避していたのだが、ふとしたきっかけで読了する切っ掛けを得た。感想としては、やはり良いミステリはトリックが分かっていても面白いものなのだ。優れた歴史小説が、有名な史実通りに事が進むのにも関わらず人の関心を強く惹きつけるように。「モナリザ」の絵をあらゆる媒体でその構図を子細に了解しているにも関わらず、実物を前にすると唯々跪くように。

 物語は異常な男の、異常な手記によって幕を開ける。ここでまず、何か尋常ではないオーラを感じる。時は戦前の日本。その手記の中で、画家の梅沢平吉なる人物は実の娘6名を殺害し、完璧な「人間」を作る計画を立てるのだ。曰く、人には生まれた年月に呼応する守護惑星がただ一つ割り当てられ、その惑星によって人間は自身の一部位が強めらる。もしこの部位を集め、一つの「人間」を作りだすことができれば、それは完璧な「作品」=「アゾート」となる。偶然にも平吉の娘たちは、この強められる部位が各々異なるため、完璧な「アゾート」を完成させる材料となりうるのだ。例えばこのようにして平吉の手記は殺しの算段とその始末の方法、そして殺しまでの理屈を子細に書き留める。アゾートを飾る場所、娘達を埋める場所やアゾートを完成させる地点も平吉の考えた占星術錬金術の理論によって深く考慮され、そして決定される。ここのレトリックがまず美しい。島田荘司占星術錬金術への造詣の深さがこの物語の根幹であり、名作たらしめる最大の要素だろうと私は思う。そして、占星術殺人事件を読了した貴君なら次の事柄を理解すると確信する。即ちこの小説は平吉の手記の異常性と気迫によって多くのミスリードを数々の挑戦者に与え、そうして挑戦者を撃沈していった。この手記は冒頭に持ってくるしかない。他の位置ではダメなのだ。まず御手洗が登場したり、石岡君との平和な会話で幕を開けたり、飯田美沙子が御手洗の元に相談に訪れたり、京都の街並みが現れたりしてはいけないのだ。そういう諸々の構造美がミステリとしての完成度にも寄与しているのがとても良いと思う。

 御手洗潔は探偵の太祖たるシャーロック・ホームズをバカにする様ないけ好かないルンペン風の野郎だがどこか妙な人望というか名声があり、やがて本件の事件の解決を依頼される。石岡君はそんな変人の御手洗にどこか惹かれ、一緒に暮らす仲だ。

 本作では多くの人間が殺されることになる。その大事件は大きく分けて3つの事件に分けられるように思う。それらを分析すると、どうも計画性の強い犯罪のため、単独犯人説が強く支持されるが、しかし単独犯と仮定すると、どうにも辻褄が合わない。犯人は男のようでもあり、女のようでもある。一人のようであって、集団のようである。また、それぞれの事件の一貫性が曖昧で、同じ軸の上にある犯罪であることをどうしても疑わざるを得ない。

しかも存命中の、梅沢家と関わりのある人間には全員アリバイがあり、そこに犯人はいないように思う。霧のように、つかみどころがない事件なのだ。というのも、平吉の手記をおおよそなぞる形で娘達は殺され、解体され、遺棄されるのだが、肝心の平吉はその前に殺害されている。

様々な事件の矛盾を解消するよう努力すると、これは異常な男が亡き後に霊となって娘たちを殺したようにしか思えない。そういう怪事件を、占星術師の御手洗潔が探偵となり、犯人を捜す思考の旅を始める。

 御手洗の華麗な推理は即座に事件というヴェールを解体していくが、どれも真理に到達しているようでいてまるで見当はずれの方向に向いているようにも見える。必ず矛盾が発生するのだ。御手洗はそういう事態にもがき苦しむのだが、初めの重要な一点で、ボタンの掛け違えが発生していると、やがて直感する…

 

 物語の最後に御手洗が指摘しているように作中において所々に殆ど解答と言って差し支えない重大な描写やヒントがあからさまに読者に提示されているが、ボタンの掛け違いがあまりにも強烈なため多くの読者がそれに気が付くことができない。ここがうまいなと思う。最後の御手洗と犯人の会見も良い。犯罪という行為は犯罪者だけが直面するものだと一見錯覚するが、実際はそれを追う探偵や警察も強く犯罪に直面し、影響されている。本作では、自殺と見せかけたほうがよっぽど良いはずのある事件が、明らかに他殺で始末されている。そういうミステリにありがちな矛盾も、最後にしっかり回収されているのもよい。犯罪行為を咀嚼することで御手洗は犯人の心理に真に差し迫っている。

 なぜか最後は京都オフ会めいた描写が始まったり石岡君が明治村に走ったりして若干シュールな気がする。