「観念」
供養を兼ねて表紙没絵をuploadします。
先日、twitterをぼーっとみていたらAmazonGoのニュースが流れてきて、衝撃を受けた。
なんで衝撃を受けたかというと、その話の前に枕としてパナソニックが開発した自動レジシステムの話題があって、これは要するにレジを無人化したということなのだが、AmazonGoではそもそもレジそのものを消滅させている。
私がそのとき見たのはNHKだったんだけど、すでにそのニュースが消滅しているので日経記事のほうを引用させていただきます。
AmazonGoはこの記事の最後のほうにちょろっと出てくる。
企業にとって人件費なんてないほうがいいに決まっているのに、しゃちょー殿が「フレンドリーな接客も必要」と言ってるのが厳しい。
おそらくパナソニックの技術者もローソンの偉い人もお店で物を買うのはかくあるべしって考えを持っていて、レジを消すなんて発想が想像の範囲外だったのだと思う。
一方アメリカ人はコンビニからレジを無くしてしまった。
私はこの話をみて、次のツイートがふと頭によぎった。
かつて星新一が「日本人は抽象的思考ができない」と書いていたが、この日本死ねをめぐる発言を見ていると星新一が正しかったことがわかる
— 古川 (@furukawa1917) 2016年12月3日
>「日本死ね」は具体的に誰が何人いつどういう方法で死ぬべきなのかまで提示しないと。それができないなら、そういうことはいわないこと
星新一の小説でそのような一節があったことは露ほども記憶にないのだが、とにかく「抽象的思考」とパナソニックの無人レジの話は妙に共鳴し合うように思う。
要するに、私たちは代金を支払って物をもらう場所に対してある観念を持っていて、その場所をお店と呼んでいるんだけど、この観念の枠内の具体的な作業を効率化する術や技術を持っているのがパナソニックの技術者で、お店という概念をぶち壊して再構築してしまったのがAmazonGoのエンジニアなのだと思う。
観念を破ることは容易ではない。というのも、言葉は私達の思考を強く規定していて、観念を破るということは言葉で縛られた思考から一度脱出する必要があるから。
月並みな疑問だが、AmazonGoのエンジニアとパナソニックの技術者は一体何が違うのだろう。
ところで、ほろびゆく日本語、という観点からはこの人が面白い記事を書いている。
脱線するがこの人の記事はどれも面白いのでみなさんにも是非読んでもらいたい。
本当はもっと当記事にフィットする話があったのだけれど、どこにあるのかわからなくなってしまった。
この人の話を真と仮定するなら、単一民族の衰退とともに色褪せてゆく日本語と、様々な文化背景を持った人々が流入しつづける英語の世界では、どちらの将来が明るいかは、目に見えているように思える。