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御冷ミャハの言葉と伊藤計劃氏

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 伊藤計劃という人の小説は、伊藤計劃本人の病とあまりにも直接的に絡み合っているので、彼の病を切り離して彼の作品を考えることはできないと思う。御冷ミャハの言葉は病床から抜け出すことなく息を引き取った伊藤計劃氏の言葉を代弁し、ハーモニーで描かれた高度福祉医療社会は、伊藤計劃氏が夢見た、だけれど同時にそれは現代社会が歪に収斂した姿だったのだろうと思う。

 幸せというのはどこまでも相対的なものだ。癌や糖尿病、心臓疾患といった人間の生命を根本的に脅かす病から人々が解放された社会では、健康であることは幸福に到達するためのベースでしかない。未成年時代の回想部で、制服を着た御冷ミャハが同級生のトァンとキアンにこんなことを語る。

「知ってるトァン…昔の町にはね、わたしたちみたいな子供の体を買ってくれる大人がいたらしいんだ」「もしそんな場所があるなら、想像してみてキアン」「そんな経験の余地がセカイに一つでもあるなら、わたしたちにだって希望が残されているはず。大人になってもいいって思えるはずでしょう」

 世界中の少女が売春と無縁で、病気から解放されて、両親や社会の人々から常に愛情を受ける社会では、人々は純潔や純真といった概念を剥奪される。すべての人々がそれらの幸福を享受すれば、それらを考えることはなんの意味も持たなくなるからだ。飽食に満たされた社会の人々は飢餓の悲惨な状態を想像することができない。国境が厳重に管理された社会では黒死病天然痘といった外来の厄災とは無縁でいられる。人々の健康が保たれる社会では、人々は健康でいられることの幸せを感じなくなる。

 そのような形で人々の幸福が幸福でなくなるように一つずつお膳立てをしていけば、人々は一体どのような存在になるのだろう?という根源的な矛盾を内包した社会に対して、御冷ミャハがどのように感じたかは想像に難くない。

 僕が初めてハーモニーを読んだとき、これは死にゆく者が絶望的な境遇を肯定的にとらえようとするある種の自己弁護の話なのだと思った。だけれど今はそうではないのだと思う。

 自分の意志で脱出することのできない苦しみは、とくに同時に死を突きつけられる場合は、私達若輩者がどれだけ想像しても想像したりないほどに強烈な一撃となって当事者を襲うだろう。そして、優しい人間なら、そのような絶望から多くの人々が解放されることを望むのだと思う。そこで、作家である伊藤計劃氏が行った思考実験がハーモニーという小説を描くことだったのだと思う。

 ハーモニーでは、淡いピンク色に装飾された医療都市よりも、厄災以前から変わらない人々が残るニジェールの砂漠や、バグダードの下町、そしてコーカサス地方の目を見張る大地の景色のほうがよほどあざやかに、生命の息吹が感じられるように描写されている。

 仮に伊藤計劃氏の病が寛解していたら、彼はニジェールバグダードに旅立って、なんだか不思議な旅行記を執筆したり、ネットの規制網をかいくぐってtwitterで実況してくれたりしていたのだろうな。