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「悪霊」

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  先日ネットで再放送されていた「ひぐらしのなく頃に」を一気通貫で視聴して、久々にひぐらし熱が湧き上がったので記念に記事を書きます。

 

 最も演技が素晴らしかったのはやはり園崎詩音演じる雪野五月だった。とくに拷問を受けるときの詩音の苦悶は恐ろしいほど完璧にこちらへ伝わってきて、初放送を見たときの冷たい夜のことを思い出して大変心地よかった。本当にこのアニメはかつて地上波で放送されていたのだろうか?とすら感じた。

 詩音の恐ろしさは、生爪を三枚剥がされる強烈な拷問を受けた直後に自分自身が拷問魔そのものに変身してしまったことであろう。こういう転向は並の人間には無理で、彼女が本当の意味で凶暴な人間であることの証左だと思う。また、北条悟史以外の人間のことは心底どうでもよくて、それこそ殺してもいいとすら思っているあたりの狂気も、単純なサイコパスとは違う存在であることを示していて良い。彼女は文句なしの異常者で、「ひぐらし」の登場人物はとりもなおさず異常者の集まりであるが、彼女は突き抜けて壊れている存在だと思う。

 ところで、そこには悪霊なんて存在しないはずなのに、いざ最後に事件全体を俯瞰して一連の陰惨な殺人事件に佇む邪悪な人間の怨念を嗅いでみると、うっすらと悪霊の存在がみえてくる、といったタイプの暗澹たる小説を描く達人といえば京極夏彦氏であるが、「ひぐらしのなく頃に」からはその京極氏の精神を感じることができる。「姑獲鳥の夏」にしろ、「魍魎の匣」にしろ、物語の終盤に京極堂こと中禅寺秋彦が、その卓越した推理能力と博識を駆使して、人々が奇妙な形で死ぬ一連の怪事件を、ある種の合理性と偶然性が絡み合った、極めて現実的な事件であったと結論づけるのだが、関口巽以下私達読者は、事件の背後に蠢く妖怪、即ち姑獲鳥や魍魎の姿を垣間見てしまい怖気をふるう。そういう危うさが、「ひぐらし」には備わっていると僕は思う。

 要するに「ひぐらし」の作中では、人々の具体的な行動がある概念を紡ぎだしていると言いたいわけです。その概念こそが「悪霊」で、園崎詩音はこの「悪霊」が降臨したとしか思えない狂気を爆発させてくれて、僕のような人間に大変なカタルシスをもたらしてくれる。作品もよくできているし、詩音も最高だし、このアニメは本当に凄いんだ。