劇場でぐったりするハーモニーおじさん

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<harmony/>のキャラクタービジュアルが発表されたとき、実はそれなりに俺の胸は高鳴ったんだ。たしかにそこにシライシユウコは居なかったけれど、まるで死者の弔いを連想させる、あのすべてのイメージを拒絶するような真っ白の文庫本の上に、艶やかな赤い花が供えられたような、そういうささやかな死者への敬意が感じられたのだ。

 

 しかし後日、俺たちの目の前に供えられた映画は、なんというか、ただの表現の暴力でしかなくて、あるいは軽率な金儲けの道具に利用されたプロジェクトイトー先生の作品の為れの果てでしかなくて、まるで目の前で大量のハーモニーの文庫本が真っ赤な炎で焼かれているような、地獄がそこにあった。

 昔冗談で、ハーモニーのような素晴らしい小説から生まれる映画が駄作になるわけがないだろう、という趣旨の文章をツイッターに投稿したのだが、その発言はあまりにも愚かだった。

 物語というものは個人の解釈でいかようにも変化してしまう。それは、今シリアやイラクで人々を虐殺している人の皮を被った悪鬼達、あるいは中世ヨーロッパで魔女狩りに走った原理主義者たちが、かつて熱心に聖書を読み解いた経験があることから容易に推察できる。

 もちろん解釈の多様性は重要だ。いま、ハーモニー映画を生み出したノイタミナは「すべてがFになる」というミステリー小説のアニメ化をプロデュースしているのだが、こちらの出来はなかなか素晴らしい。「Fになる」もハーモニーと同様に原作をそれなりにクラッシュして再構成したようなアニメなのだが、品質が異なる。すなわち、此処だけは絶対に壊しちゃだめだろう、という点を「Fになる」はよくわかっている。

 物語のディティールは基本的にどうでもいい。すべてがFになるのドラマ企画では、犀川先生がMacではなくWindowsのパソコンを使っている点に多くの視聴者が憤っていたのだが、あれは単純に原作と異なる描写をしたことが問題になったのではなく、犀川先生の価値観からすれば当然に利用しないであろうWindowsのパソコンを使っていたことにみんな怒っていたのだと思う。もしも、犀川先生の人物像がもっと俗な価値観を持ったキャラクターにアレンジされていて、かつ物語の再構築がうまく行っていたなら大きな炎上は怒らなかっただろうと思う。

(これでアニメ版の犀川Windowsをつかっていたならごめんなさい)