serial experiments lainの90年代
lainの5話を観ていると、そういえば90年代にはこういうオカルティックな演出がテレビで流行ったな、と懐かしい気持ちになる。思えば、90年代の後半には新興宗教やらノストラダムスやら心霊現象のブームやらがあって世間はそれに沸いていた。
lainの5話にはあの時の退廃的な雰囲気が濃縮されている。
そして、00年に突入するとそういうブームがぱったりと消えて、社会が別のフェーズに相転移したのを肌身で感じた記憶がある。
社会の技術は進歩した。あのときから日本社会は確実に没落していったんだけど、一方世の中のIT技術は素人にもわかるぐらい劇的に向上していって、例えばインターネットの速度は恐ろしく早くなっていって、パソコンの上でできることはどんどん多くなっていった。midiを聴いていたのが、いつのまにか音楽CDの音源を直接楽しめるようになった。個人発信のFlashコンテンツは、大手動画サイトが仲介する映像コンテンツに置き換わった。
そんな中、いつのまにかモデムのピーガー音を聞かなくなった。
いつから聞けなくなったんだろう。
気の狂った岩倉美香をみていると、あの90年代の記憶が蘇ってくる。
serial experiments lainはわからないのに
わからないのに面白いのが困る。さらに、自分の周囲での評価が良いので困る。
これは誘い笑いに近い感情ではないか?周りが笑っていたら、なんだかよくわからないが自分もつられて笑ってしまうことがあるように。
ある作品に対する、自分にとっての評価をうまく言語化できない場合、その評価はどこからもたらされたものか、うまく客観的に考えることができない。
もしかしたら、隣で一緒に視聴していた友人が凄く楽しそうに観ていたことだけを鮮明に覚えていて、その記憶だけが上手く自分の心の中にある作品の評価に接続して、「なんだかおもしろかったなあアレ」と記憶が変質してしまっただけかもしれない。
私たちの記憶や感情は曖昧で、周囲の影響を絶えず受けている。それによって評価される対象の好悪も、やはり曖昧で、周囲の影響を絶えず受けている。
逆も然りだ。周りが悪く言うので、なんとなく悪い評価をつけてしまうことがある。
自分自身を、少し自分から離れて観察することは大切な気がする。特に悪い評価をつけてしまった場合には、注意深く自分を観察したほうが良いと思う。
魑魅魍魎のインド
帰国直後、原因不明の高熱と下痢と吐き気に襲われ、肉体的にも精神的にも完全に死んでいたけどようやく復活の兆しが見え始めたのでブログを書くことにした。
訪問都市:
デリー→アーグラー→ワラナシ→デリー
日本人が良く行く道を素直に通った。
日程:
4/29~5/8
人数:
3→2→3→1
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〇デリー編:
中國東方航空でインド・インディラガンディー国際空港へ。
トータルフライト時間は9時間程度。
深夜到着でヘトヘトの中入国審査の長蛇の列を待つ。
やっと審査員の前までやってきてパスポートを渡したら審査員が隣の同僚に声をかけて僕の顔を指さして笑いだした。それ以外はとくに何事もなく審査終了、通過。
朝になるのを待ってデリー市街に出た。
こんな感じで牛が大量にそのへんを歩いている。
あと野良犬、ヤギもうようよしていて、非常にスリルがある。
まあ牛や犬などは実は全然問題にならなくて、デリーで本当に参ったのは客引きである。曖昧な態度をとりつづけると延々とついてくる。
で一人の客引きインド人を躱すと間髪いれず次のインド人がやってきて、ホテルやら旅行会社に誘導しようとする。これをホテルに逃げ込むまで延々と繰り返した。
あと、デリーの駅前で道を聞くと取り敢えずタクシーに載せられてよくわからない旅行会社へと連れていかれた。旅行会社を断って駅に戻るようにいうとまた別の旅行会社へと連れていかれた。
デリー訪問わずか数時間でこの街が嫌になった。
デリーのモスクは本格的でよかった。
〇アーグラー編:
デリーから電車で3時間ほどの場所にある観光都市。
駅前の客引きがデリーより酷くて、公衆便所に4人ぐらいのタクシードライバーがついてきた。
このタクシーのおっさんの一人にとりこまれ、アーグラーにいた2日間ずっと高価な土産物屋巡礼に付き合わされるはめになった。
タージマハルのことはあまり覚えていない。逆に強烈に覚えていることといえば、1日目の夜、売春宿につれていこうとするタクシーのオッサンを振り切り、タージマハルの前の前の広がる旧市街に逃げ込んだら脱出できなくなって、自暴自棄気味にペットボドルを振り回しながら歩いていたら犬に吠えられ、十数メートル追いかけられ、その間偶然横にいた二人組のインド人の少女にゲラゲラ笑われたことだ。
※アーグラーの旧市街は本当に迷路みたいで、一度迷いこんだら土地勘のない人間は決して自力で脱出できなくなるので、注意したほうがいいです。
タージマハルは細部にも意匠が凝らされ、異様な感じだった。
〇ワラナシ編:
アーグラーからさらに400メートルほど東へと進めばヒンドゥー教の一大聖地がある。
ガンガーの川沿いに広がる街、ワラナシである。
この街もやはり客引きが酷かった。(個人的にはデリーより酷かった)
ここは今回、最も強烈に記憶に残った街で、なぜかというと結構な数の基地外に絡まれた。
①火葬場を見つけてしばらく人間が焼けるのを眺めていたらヤンキー風のインド人が隣についていきなりガイドを始めた。ノーマネーだよと確認の上で話を聞いていたら高台の上につれていかれそうになる。断固拒否したら、いきなり豹変して鬼の形相で怒鳴り始めた。多分この街からでていけ、クソ日本人!みたいなことを叫んでいたと思う。
怖かったので逃げるようにして川沿いの旧市街へと逃げ込んだ。
ここの旧市街も迷路めいた形になっていて、同じ場所に何度も何度もたどり着いてなかなか脱出できなかった。後ろからあの病的なインド人が追いかけてくるのではないかと思うと、気が変になりそうだった。
②やたらキレ気味の関西弁を使いたがる不良インド人の客引きに捕まる。
まさかインドで「なんでやねん!」「お前なんやねん!」をきくことになるとは思わなかった。
地球の歩き方にも掲載されているというシルク土産屋に連行されたが、店構えが明らかに普通の店じゃなくて入店を拒否したら殴りかからんばかりの形相で腕を捕まれる。
怖すぎたのでTシャツを1枚買って逃げた。
③裏路地のような旧市街でハッパ、ハッパと囁く太ったオッサンに腕を捕まれそうになる。空いてる手で自分の股間をもみしだいていて、これは本当に怖かった。
街自体は素晴らしかった。日没のガンガーを船の上でゆったりしながら楽しむのは本当に良かった。
この修行僧のオッサンに100ルピーほどお布施したら写真撮影サービスもしてくれた。
〇デリー(二回目):
帰国するためデリーへ。しかし深夜のフライト便が2時間delayしたことで睡魔に負け、乗り過ごした。
絶望的な気分で空港を出て、デリー市街にある中國東方航空の予約受付オフィスへ。
翌日の便で帰ることになったので美術館(写真撮影OK)と大統領府へ寄った。
美術館は展示物が非常に豊富で、当然ながら客引きもいないのでかなり快適だった。
一日中時間を潰せる。
結構な観光スポットになってた。
→次の便で無事帰国できた。
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学んだこと:
①できれば旅行先の空港内に窓口のある航空会社を使った方が良い。
インドの場合はエア・インディア。
チケット再発行の手間が全然違う。
②最後まで気を抜いてはいけない。
③積極的に話しかけてくる人はヤバイ。何か情報が欲しければこちらから誰かに尋ねること。
④GoogleMapはいつでも使えるようにしといたほうがいい。
ない場合は方位磁石。とにかく自分の位置や、向かうべき方角を少しでも知る手がかりがあるとかなり楽。
レキに学ぶ灰羽連盟
愛煙家で、若くて、声の低い女はアニメの世界においてはテキトーな人間であると私は固定観念を持っていて、これはひとえに苺ましまろというアニメで登場する女子短大生伊藤伸恵が、私の高校時代のオタクライフのシンボルであったことに由来します。
(余談だが、煙草を吸う声の低い女を最近のアニメ界隈でさっぱり見かけなくなった気がする。いたら紹介してほしい)
ところで灰羽連盟を視聴済みの方はとっくに気が付いていると思いますがレキという人は根本的な部分でテキトーなところがなくて、たとえばオールドホームに新しい仲間が誕生すると聞いたときに大喜びして、率先して世話役を引き受けていたのはレキです。そういう人間性からみんなから信頼されているように見えるが、一方妙に暗い、つっけんどんな側面つまりウィークポイントがレキにはあって、これが後々の物語の方向性を決定することになっています。で、最後はレキがラッカにおんぶにだっこ状態になって灰羽連盟はめでたし、となる。
ラッカがオールドホームにやってきたのは春で、楽しい夏をみんなで過ごした後に、秋になり、たぶんこの辺でクウが消え、冬になり、ラッカが罪憑きになり、暗い話が多くなり、そんな中でラッカが精神的に成長して、そして冬が終焉するころにレキがグリの街を旅立つことになる。一周四季がめぐって新しい春がやってきたときに丁度物語が閉じている。その間に、オールドホームの同志たちに頼り切りだったラッカが成長して、レキの心の闇を理解するようになり、受容し、そして最後はレキを助けることになる。灰羽連盟は世界観のディテールの部分に説明がほとんどなくて、一見よくわからない作品だけど、実は物語の骨組み自体は王道で、良い作品だと私は思う。
この物語はレキとラッカがお互いに助け合う物語なわけですね。そこに人間同士の理想的な関係を垣間見ることができて、私は好きです。
岩倉玲音共和国その2
先日、大量の安倍吉俊の画集を読む機会に恵まれて、読み漁っていたら、安倍吉俊はlainの造形になかなか苦労していたらしいことが分かった。というのも、ある画集にlainのプロトタイプと想像できる少女が数ページに渡って、ズバババと書きなぐられていたからです。
あのヘンテコなアシンメトリー・ヘアや、どことなくこの社会の存在ではないことを匂わせる雰囲気の少女は、それなりに考え抜かれた結果生み出されたキャラクターであったらしい。
面白いのは、安倍吉俊が描けば描くほど「ほぉ~確かにこれはよりlainっぽいね」と思える方向に修正されていったことで、これは私がlainの最終形を知っているがゆえの誤解かもしれないが、キャラデザという作業は、よくわからないセンスやらインスピレーションでパッパと済んでしまうものではなくて、土台を固めて少しずつブラッシュアップしていく泥臭い作業なのだなと理解することができて、興味深かった。
画集のそのほかの作品をみてみても、安倍吉俊の素描絵の中には、凄まじく良いものもあれば、なんだこれ?というたぐいの物もあって、才能溢れる人間も、作品を生み出すのには苦労しているんだろうなあということがおぼろげに分かって、いろいろ思うところがあった。
まあでもとにかく第一に大切なのは何が何でも納得のいくまで描きまくることで、私はそれを、あの世に出ることの叶わなかったlainのプロトタイプ達、不出来なDuplication達によって理解することができた。
エヴァQの中で、カヲル氏も言っていた。「納得のいく音が出るまで、鍵盤をたたき続けるんだよ」(多少、台詞は私の脳内で改変されてしまったかもしれない)
「模倣」
ふと思い立って、目に留まった作品の真似をしてみると、何気ないところに素晴らしい技巧が凝らされていたり、模倣しようにも再現できないほどうまく作りこまれている細部に気が付いたりする。
模倣はいけないことなのだろうか?
その動機にリスペクトが含まれていようがなかろうが、それはある人の軌跡を辿る行為そのものなので、そこには景色が存在し、険しい道があり、達成感が存在するように感じる。そして最終的には、それらは開拓者たる作者への敬意へと還っていく。
敬意というものは思いのほか大事なもので、たとえば軽蔑から建設的な未来を引き出すことは期待できない。一方敬意は向上心の駆動源となる。
この社会で暮らしていると、人々は他者を褒めないことに気が付く。
先日ツイッターのタイムラインを眺めていたら、「素直に人を褒めると気分が楽になる」という意味のRTが流れてきた。なるほど、人を褒めたところで誰も悪い思いはしないし、そこからは自ずと敬意が芽生える。一方、悪いところを探すような穿った見方から敬意は生まれないし、それは結局自分自身の行動に制限をかけることになると感じる。
「観念」
供養を兼ねて表紙没絵をuploadします。
先日、twitterをぼーっとみていたらAmazonGoのニュースが流れてきて、衝撃を受けた。
なんで衝撃を受けたかというと、その話の前に枕としてパナソニックが開発した自動レジシステムの話題があって、これは要するにレジを無人化したということなのだが、AmazonGoではそもそもレジそのものを消滅させている。
私がそのとき見たのはNHKだったんだけど、すでにそのニュースが消滅しているので日経記事のほうを引用させていただきます。
AmazonGoはこの記事の最後のほうにちょろっと出てくる。
企業にとって人件費なんてないほうがいいに決まっているのに、しゃちょー殿が「フレンドリーな接客も必要」と言ってるのが厳しい。
おそらくパナソニックの技術者もローソンの偉い人もお店で物を買うのはかくあるべしって考えを持っていて、レジを消すなんて発想が想像の範囲外だったのだと思う。
一方アメリカ人はコンビニからレジを無くしてしまった。
私はこの話をみて、次のツイートがふと頭によぎった。
かつて星新一が「日本人は抽象的思考ができない」と書いていたが、この日本死ねをめぐる発言を見ていると星新一が正しかったことがわかる
— 古川 (@furukawa1917) 2016年12月3日
>「日本死ね」は具体的に誰が何人いつどういう方法で死ぬべきなのかまで提示しないと。それができないなら、そういうことはいわないこと
星新一の小説でそのような一節があったことは露ほども記憶にないのだが、とにかく「抽象的思考」とパナソニックの無人レジの話は妙に共鳴し合うように思う。
要するに、私たちは代金を支払って物をもらう場所に対してある観念を持っていて、その場所をお店と呼んでいるんだけど、この観念の枠内の具体的な作業を効率化する術や技術を持っているのがパナソニックの技術者で、お店という概念をぶち壊して再構築してしまったのがAmazonGoのエンジニアなのだと思う。
観念を破ることは容易ではない。というのも、言葉は私達の思考を強く規定していて、観念を破るということは言葉で縛られた思考から一度脱出する必要があるから。
月並みな疑問だが、AmazonGoのエンジニアとパナソニックの技術者は一体何が違うのだろう。
ところで、ほろびゆく日本語、という観点からはこの人が面白い記事を書いている。
脱線するがこの人の記事はどれも面白いのでみなさんにも是非読んでもらいたい。
本当はもっと当記事にフィットする話があったのだけれど、どこにあるのかわからなくなってしまった。
この人の話を真と仮定するなら、単一民族の衰退とともに色褪せてゆく日本語と、様々な文化背景を持った人々が流入しつづける英語の世界では、どちらの将来が明るいかは、目に見えているように思える。