久々に灰羽連盟をみた

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 serial experiments lainより圧倒的に作画が足りていない感じがしたのが悲しかった。

 

 主要人物が軒並み羽と輪っかをつけているということで、基督教的な訓示を含んだ物語と思いきや、肝心の羽と輪っかを付けている連中は労働に勤しんでいるし、しかも無賃労働に近い扱いで人間にこき使われる立場だし、なんだかよくわからないな、とりあえずかわいそうだなあ、というのが第一印象だったことを思いだした。

 あるいはこの物語は、抑圧されるばかりで反抗を知らぬ日本の労働者が喜んで労働に奉仕する様を戯画的に描いたものかもしれない。最近ではニューゲームというアニメに、お互いを美少女としか認識できなくなったサラリーマンのオッサンの悲哀を描いた作品ではないかという疑惑がかけられていたが、あれの先駆けがこの灰羽連盟だったのかもしれない。

 

 もうすこし真面目に作品を語ってみると、安倍吉俊のセンスの良さが存分に登場人物に反映されているなと感じた。特にレキのデザインは秀逸だと思う。不良っぽいけど明らかに不良ではない感じが良い。だけれど完全にお人よしという感じでもなくて、他人に決して侵害されたくない領域を心の隅に抱えている、そういう設定が透けて見えてくる感じ。一目見た瞬間にオールドホームで歩んだレキの人生がみえてくる感じがする。

 あとは世界観の作りこみなんかが良い。たとえば灰羽たちの住む町は壁で囲まれていて、壁から出ることができない。一部の存在だけが壁の向こうへ行ける。灰羽たちは使い古しの物しか使ってはいけない。灰羽はある日突然消え去ってしまう。街の外からやってくる人々は宗教的な衣裳をまとっていて、彼らに灰羽たちは言葉を交わすことができない。

 

 どことなく幻想的で独特な風習がある世界は、私たちの現実と微妙にリンクしている気がする。というのもそれらの設定は私たちの常識からすると一見奇抜なのだが、不思議とすっと受け入れることができる。千と千尋の神隠しを想像してもらえるならわかりやすいと思う。

 安倍𠮷俊の世界と私たちの世界は大きく異なるように思うけれど、なぜかその垣根はとても低くて、気軽にあっちへと渡ることができる。その辺の特長が、灰羽連盟がこれほどまでに長く多くの人々の支持を集める理由なのかなあと感じた。 

響け! ユーフォニアムは本当によかった

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以下ユーフォのネタバレになります。

 

 

 

2期10話、本心を頑なに胸の奥に仕舞ったまま吹奏楽部を去ろうとするあすか先輩を引き留める久美子が、大泣きしながら心の内をさらけ出す場面が本当にすばらしくて、齢三十歳間近の私の心が久々に、アニメで高鳴った。

 

作中のセリフを抜粋すると次のようになる。

久「あすか先輩と出たい!私が出たいんです!」

あ「そんな子供みたいなことを言って・・・」

久「子供で何が悪いんです!先輩こそなんで大人ぶるんですか!!全部わかってるみたいに振る舞って!」

久「先輩だってただの高校生なのに!」

久「先輩、お父さんに演奏聴いてもらいたいんですよね?誰よりも全国行きたいんですよね?」

久「我慢してあきらめれば丸く収まるなんて、そんなのただの自己満足です!」

久「あきらめないでくださいよ・・・!」

久「後悔するってわかってる選択肢を、自分で選ばないでください・・・」

 

このシーンのしばらく前に、久美子の姉の話があって、自分の本当にやりたいことを我慢しつづけた姉は、好きなことをやって人生を楽しんでいる久美子に嫉妬して堪忍袋の緒が切れてしまった。頑張って入学した大学も辞めようとしている。

そんな姉を傍らでみていた久美子は、同じように母親の都合(エゴ)で部を去ろうとしているあすか先輩のことを心の底から心配している、という背景がこのやりとりにはあります。

こういう物語はなかなか書けるようで書けないと思う。なんだか私は、このやりとりに作者の実体験を後ろ盾にした気迫のようなものを感じた。この久美子のセリフには久美子にしか言えない言葉が詰まっている。他人の言葉で虚飾されていない人間の感情がある。

なによりも、人の為に本気で泣くことのできる人間を私はここしばらくリアルでも、アニメでも見ていない気がした。そんな久美子に私は心を打たれたのかもしれない。

 

結局このブログで何が言いたかったかというと、みんなもユーフォニアムみよう、ということです。アニメ業界の新陳代謝は激しく、たいていの作品は1,2年後にはすっかり埋もれてしまう。この作品を1,2年の寿命で終わらせたくない。そんなことを考えて記事を勢いで書いてみた。いいか、みんなユーフォをみてくれ。

「観念」

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 供養を兼ねて表紙没絵をuploadします。

 

 先日、twitterをぼーっとみていたらAmazonGoのニュースが流れてきて、衝撃を受けた。

 なんで衝撃を受けたかというと、その話の前に枕としてパナソニックが開発した自動レジシステムの話題があって、これは要するにレジを無人化したということなのだが、AmazonGoではそもそもレジそのものを消滅させている。

 

www.nikkei.com

 私がそのとき見たのはNHKだったんだけど、すでにそのニュースが消滅しているので日経記事のほうを引用させていただきます。

AmazonGoはこの記事の最後のほうにちょろっと出てくる。

企業にとって人件費なんてないほうがいいに決まっているのに、しゃちょー殿が「フレンドリーな接客も必要」と言ってるのが厳しい。

 

おそらくパナソニックの技術者もローソンの偉い人もお店で物を買うのはかくあるべしって考えを持っていて、レジを消すなんて発想が想像の範囲外だったのだと思う。

一方アメリカ人はコンビニからレジを無くしてしまった。

 

私はこの話をみて、次のツイートがふと頭によぎった。

 

星新一の小説でそのような一節があったことは露ほども記憶にないのだが、とにかく「抽象的思考」とパナソニックの無人レジの話は妙に共鳴し合うように思う。

要するに、私たちは代金を支払って物をもらう場所に対してある観念を持っていて、その場所をお店と呼んでいるんだけど、この観念の枠内の具体的な作業を効率化する術や技術を持っているのがパナソニックの技術者で、お店という概念をぶち壊して再構築してしまったのがAmazonGoのエンジニアなのだと思う。

 

観念を破ることは容易ではない。というのも、言葉は私達の思考を強く規定していて、観念を破るということは言葉で縛られた思考から一度脱出する必要があるから。

 

月並みな疑問だが、AmazonGoのエンジニアとパナソニックの技術者は一体何が違うのだろう。

 

ところで、ほろびゆく日本語、という観点からはこの人が面白い記事を書いている。

脱線するがこの人の記事はどれも面白いのでみなさんにも是非読んでもらいたい。

gamayauber1001.wordpress.com

本当はもっと当記事にフィットする話があったのだけれど、どこにあるのかわからなくなってしまった。

 

この人の話を真と仮定するなら、単一民族の衰退とともに色褪せてゆく日本語と、様々な文化背景を持った人々が流入しつづける英語の世界では、どちらの将来が明るいかは、目に見えているように思える。

コミケ(C91)_serial experiments lain合同本_サークル参加告知

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twitterではさんざん告知したけどブログでも改めてお知らせします。

 

C91金曜日(12/30)東地区Q41aに私のサークルが出店します。

サークル名:東西珈琲部

新刊:WELCOME/TO/WIRED! - serial experiments lain合同感想本

執筆者6名、64P

 

なかなか読み応えのある本に出来上がったとおもうのでlainファンの方、lainを知りたい方、ぜひとも当サークルにお越しください!

 

※ちなみになぜ今更広告をがんばっているかというと、ついさっきみた当サークルのカタロムになんにも情報が掲載されておらず、箸にも棒にもかからない状態なことを知ったからです。どうやら申込時の登録に漏れがあったらしい。

 

lainの本が欲しい人の元になるべく情報を届けたいと思いますのでよろしくお願いします!

 

参考:サークル詳細

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2017/4/5追記:

現在COMIC ZIN様にて同人誌の取り扱いをしております!

興味のある方は是非ともご購入いただきたく。よろしくお願いします。

 

不出来なデューク

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 ブログを更新していないな、と思ったので義務感に駆られてブログを書きにきました。

※以下lainの話題ではないです。

 

 文化は迫害されるうちが花、なのかもしれないなと思った。オタクが迫害されていた2000年台前半には既に心身ともにオタクとなっていた高校生の私は本当に辛い時代を過ごしたのだけれど、今でも頻繁に思い返すのはその頃に視聴していた作品達である。たとえば04年には撲殺天使ドクロちゃんという、ある種の先天的な機能障害を持つ人間達をターゲットに絞ったとしかおもえない本当に酷いギャグアニメがあって、私はそれが大好きだった。今にして思えば、あのアニメは商売根性逞しくして作られた作品では決してない。当たればラッキー程度にしか考えていなかったんだけれど、その代わりナード的感性を包み隠さずに投入されたザ・オタク作品だったのだろう。

 一部の人間にしかウケない作品がいい、と言っているのではないです。迫害されるうちは人気がないから、変に権威というものが育っていない。オタクがオタクを楽しませようとしている。その雰囲気が私はいいと思う。

 迫害されたオタク達は、喧嘩するということがそれほどなかった気がする。なんせ迫害されているのだから、仲間同士でいがみ合っていても自分達が苦しくなるだけなので。

 しかし2006年ぐらいから、迫害されるオタクという構造が崩壊しはじめて、なぜだかわからないけどオタク文化は徐々に世間に受け入れられ、今では、特に若い世代は殆どオタク文化に抵抗を持っていない。きみの名は。という邦画を観に行った人ならわかると思うんですが、梅田のHEP5や難波の千日前を縄張りにしてそうなヤンキーなお兄さんお姉さん、イケイケなリア充系高校生が当たり前のように劇場に足を運んでいます。

 彼らの流入が許せないわけでもない。やはり文化は大勢の人間で楽しんだほうが絶対に良い。

 じゃあなにがだめかというと、アニメ界隈の人間が増えた結果、オタクの中にもいろんな分派が現れてきて、すごく些細な感性の違いを発端としてお互いがお互いを殴る世界ができてしまったこと。

 原初キリスト教ローマ帝国の国教となり、西欧社会の文化と融合して大勢の人に受け入れられていくうちに教会の東西分裂や権威の象徴であるローマ教皇が発生した史実が物語るように、ある共同体の人口が増えればそれだけややこしいいがみ合いが発生する。

 人間には似ている2つの存在の些細な違いをついつい気にしてしまう性質がある。そしてある場合には、些細な違いを過大に評価してしまって、それが喧嘩の元になってしまう。そこに権威の論理や数の暴力が加われば、物事はより一層ひどい方向に進んでしまう。

 こういう争いはあらゆるところに存在して、多くの場合は解決されずに膠着状態に陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 オタクが迫害されていた時代にはもう戻らない。もちろん迫害は大変悪いことなので、ないに越したことはないし、今のように堂々とガールズアンドパンツァーのあんこうさんチームTシャツを着て大洗に出かけられる世の中のほうがいいに決まっている。

 だけれど、迫害されていた当のオタクが、昔を懐かしんでしまう程度には、あのころのアニメには活力があったのです。

2016年むぎや祭り

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 二年ぶりに城端へ行ってきた。

 前回と比べて減ってしまった街中のtruetearsのポスターのことを考えると、今このアニメは黄昏時にあるのだろうな。

 今年もひっそりとtruetearsの居場所があって、ありがたいことだと感じた。

 

 今回は金沢駅南砺市井波を走るバスに乗って城端を目指した。

 このオタクラッピングバスに乗車するとき、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまったので、僕もオタクとしてはまだまだなんだと分かった。

 

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 金沢駅からの乗車人数は僕含めて8人程度で、オタクの数は僕を除いて0人だった。

 バスで走ってみると、やはり金沢から南砺はかなり近いことがわかる。同時に鉄道在来線はかなり大回りをしていることがわかるので、関西方面から高岡経由で城端に入るのは、実はあまりお勧めできない。

 このバスは途中城端線の福光駅に停車するのだけれど、今回は終点の井波まで乗ってみた。

 

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 井波は至る所に木彫り細工の趣向が凝らされた街で、人の気配が殆ど無いのでこの木彫り細工達が旅人を出迎えてくれる。コミュ障向けの街だと思った。

 

 井波には瑞泉寺というランドマークがあった。本当に凄いのは伽藍の中なんだけど、あいにく写真撮影が禁止されていて撮ることが出来なかった。なぜこんな田舎にこんな立派な寺があるんだ、という程度には良かったので、富山旅行を企画している人にお勧めです。

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なんでも木彫りで作ってしまう。

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 井波で時間を潰した後はタクシーで城端へと向かった。

 運賃はなぜか4000円もかかった。距離は高々10kmしかないはずなんだけど…

 ソロで井波~城端間移動はお薦めできなかったです。

 

 城端着。

 街中にtruetearsに登場するような踊り衣裳を着込んだ少女たちが徘徊しているこの日の城端は、truetearsオタクなら必ず一度は訪れる聖地なのだと改めて感じた。

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 数年前に初めて来訪したときは無かった(気がする)舞台。いつもは痛車が停車している駐車場が占拠されていて悲しかった。

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 僕の同業者はだいたいこのへん(城端座~PA屋台の周辺)にたむろっていて、祭りに溶け込めていない感じに好感がもてた。

 

 城端の祭りは大人しいと思う。僕の地元(大阪)の祭りはとても乱暴な雰囲気に支配されていた。一方城端の祭りは、神輿でウェイウェイやるわけでもなく、ただ踊り子達が舞台に登壇しては踊り続けるだけの祭りだ。僕のようなオタクにはこの程度がちょうどよい。

 

 ビールを飲んでだらだら踊りを観ていたらいつの間にか夜が来たので帰った。

 結局ブログに紹介できそうな写真をほとんど撮らずに帰ってしまったので、アレな旅行になった感が否めない。

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 帰りは高山を経由して一日泊まって帰った。

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 富山駅構内が大変きれいになっていた。

 このでっかい絵が好き。

岩倉玲音共和国

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 昔のアニメの寂しいところは、そのアニメの聖地が存在しないところだったり、遠い場所の人同士が気軽につながることのできるネットサービスが存在しなかったことでアニメの話題をみんなで幸福に共有できなかった点です。たぶんserial experiments lainという作品を、当時の多くのオタクな人達は孤独に楽しんだのだと思う。なんとlain放送当時の1998年には2chすら無かったという!

 「どこにいたって、人は繋がっているのよ」とレインは言うけれど、当時のlainオタクの人々は深夜のブラウン管テレビの前で孤独に燃えて、その多くはこのSNSの時代を迎えることのないまま冷めてしまったのだと思う。悲しいことです。(もう少ししたら2chが現れるじゃないか、という反論があるかもしれないけど、ぼくの記憶では、2chは話し合いや話題の共有の空間というよりは人々が互いに主義主張を手に殴り合いをしている野蛮な場所で、とてもじゃないけど人が繋がる場所とは思えなかった。)

 先日「visual experiments lain」という本を取り寄せてみた。やはりlainは理解できないんだけど、おおよそ20年前の、昭和と現代が奇妙に混じり合った社会の芳香を感じ取ることができてとてもよかった。おそらく、90年代は今からでは想像しがたいほど人々の関心や趣味が画一的な時代で、なんだかあの頃は本当に人々は繋がっていたんじゃないかと訝る程度にみんな似たような存在だったように思える。なので、そんな世界の深夜のブラウン管からずぶずぶとあのようなアニメが這い出てきたことに奇妙な必然性を感じる。

 ところで、オタクの人々がアニメで得た感情を共有できる場として聖地が存在することはとても幸せなことだと思う。やはりそういった場所は、できるかぎり楽しむほうが、普段孤独の世界に耽溺しているオタクの人ならなおさら良いと思う。

 そしてなにより、現代にはtwitterという素晴らしいツールが存在するので、気軽にオタクの人がオタクの人とつながることができます!

 なので、あんまりこの記事には関係がないんだけど、今度富山の城端という町で年に一度の巡礼祭があるので、ゼロ年代PAワークスファンの人たちはみんなで訪れてほしいと思います!