「観念」

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 供養を兼ねて表紙没絵をuploadします。

 

 先日、twitterをぼーっとみていたらAmazonGoのニュースが流れてきて、衝撃を受けた。

 なんで衝撃を受けたかというと、その話の前に枕としてパナソニックが開発した自動レジシステムの話題があって、これは要するにレジを無人化したということなのだが、AmazonGoではそもそもレジそのものを消滅させている。

 

www.nikkei.com

 私がそのとき見たのはNHKだったんだけど、すでにそのニュースが消滅しているので日経記事のほうを引用させていただきます。

AmazonGoはこの記事の最後のほうにちょろっと出てくる。

企業にとって人件費なんてないほうがいいに決まっているのに、しゃちょー殿が「フレンドリーな接客も必要」と言ってるのが厳しい。

 

おそらくパナソニックの技術者もローソンの偉い人もお店で物を買うのはかくあるべしって考えを持っていて、レジを消すなんて発想が想像の範囲外だったのだと思う。

一方アメリカ人はコンビニからレジを無くしてしまった。

 

私はこの話をみて、次のツイートがふと頭によぎった。

 

星新一の小説でそのような一節があったことは露ほども記憶にないのだが、とにかく「抽象的思考」とパナソニックの無人レジの話は妙に共鳴し合うように思う。

要するに、私たちは代金を支払って物をもらう場所に対してある観念を持っていて、その場所をお店と呼んでいるんだけど、この観念の枠内の具体的な作業を効率化する術や技術を持っているのがパナソニックの技術者で、お店という概念をぶち壊して再構築してしまったのがAmazonGoのエンジニアなのだと思う。

 

観念を破ることは容易ではない。というのも、言葉は私達の思考を強く規定していて、観念を破るということは言葉で縛られた思考から一度脱出する必要があるから。

 

月並みな疑問だが、AmazonGoのエンジニアとパナソニックの技術者は一体何が違うのだろう。

 

ところで、ほろびゆく日本語、という観点からはこの人が面白い記事を書いている。

脱線するがこの人の記事はどれも面白いのでみなさんにも是非読んでもらいたい。

gamayauber1001.wordpress.com

本当はもっと当記事にフィットする話があったのだけれど、どこにあるのかわからなくなってしまった。

 

この人の話を真と仮定するなら、単一民族の衰退とともに色褪せてゆく日本語と、様々な文化背景を持った人々が流入しつづける英語の世界では、どちらの将来が明るいかは、目に見えているように思える。

コミケ(C91)_serial experiments lain合同本_サークル参加告知

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twitterではさんざん告知したけどブログでも改めてお知らせします。

 

C91金曜日(12/30)東地区Q41aに私のサークルが出店します。

サークル名:東西珈琲部

新刊:WELCOME/TO/WIRED! - serial experiments lain合同感想本

執筆者6名、64P

 

なかなか読み応えのある本に出来上がったとおもうのでlainファンの方、lainを知りたい方、ぜひとも当サークルにお越しください!

 

※ちなみになぜ今更広告をがんばっているかというと、ついさっきみた当サークルのカタロムになんにも情報が掲載されておらず、箸にも棒にもかからない状態なことを知ったからです。どうやら申込時の登録に漏れがあったらしい。

 

lainの本が欲しい人の元になるべく情報を届けたいと思いますのでよろしくお願いします!

 

参考:サークル詳細

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2017/4/5追記:

現在COMIC ZIN様にて同人誌の取り扱いをしております!

興味のある方は是非ともご購入いただきたく。よろしくお願いします。

 

不出来なデューク

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 ブログを更新していないな、と思ったので義務感に駆られてブログを書きにきました。

※以下lainの話題ではないです。

 

 文化は迫害されるうちが花、なのかもしれないなと思った。オタクが迫害されていた2000年台前半には既に心身ともにオタクとなっていた高校生の私は本当に辛い時代を過ごしたのだけれど、今でも頻繁に思い返すのはその頃に視聴していた作品達である。たとえば04年には撲殺天使ドクロちゃんという、ある種の先天的な機能障害を持つ人間達をターゲットに絞ったとしかおもえない本当に酷いギャグアニメがあって、私はそれが大好きだった。今にして思えば、あのアニメは商売根性逞しくして作られた作品では決してない。当たればラッキー程度にしか考えていなかったんだけれど、その代わりナード的感性を包み隠さずに投入されたザ・オタク作品だったのだろう。

 一部の人間にしかウケない作品がいい、と言っているのではないです。迫害されるうちは人気がないから、変に権威というものが育っていない。オタクがオタクを楽しませようとしている。その雰囲気が私はいいと思う。

 迫害されたオタク達は、喧嘩するということがそれほどなかった気がする。なんせ迫害されているのだから、仲間同士でいがみ合っていても自分達が苦しくなるだけなので。

 しかし2006年ぐらいから、迫害されるオタクという構造が崩壊しはじめて、なぜだかわからないけどオタク文化は徐々に世間に受け入れられ、今では、特に若い世代は殆どオタク文化に抵抗を持っていない。きみの名は。という邦画を観に行った人ならわかると思うんですが、梅田のHEP5や難波の千日前を縄張りにしてそうなヤンキーなお兄さんお姉さん、イケイケなリア充系高校生が当たり前のように劇場に足を運んでいます。

 彼らの流入が許せないわけでもない。やはり文化は大勢の人間で楽しんだほうが絶対に良い。

 じゃあなにがだめかというと、アニメ界隈の人間が増えた結果、オタクの中にもいろんな分派が現れてきて、すごく些細な感性の違いを発端としてお互いがお互いを殴る世界ができてしまったこと。

 原初キリスト教ローマ帝国の国教となり、西欧社会の文化と融合して大勢の人に受け入れられていくうちに教会の東西分裂や権威の象徴であるローマ教皇が発生した史実が物語るように、ある共同体の人口が増えればそれだけややこしいいがみ合いが発生する。

 人間には似ている2つの存在の些細な違いをついつい気にしてしまう性質がある。そしてある場合には、些細な違いを過大に評価してしまって、それが喧嘩の元になってしまう。そこに権威の論理や数の暴力が加われば、物事はより一層ひどい方向に進んでしまう。

 こういう争いはあらゆるところに存在して、多くの場合は解決されずに膠着状態に陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 オタクが迫害されていた時代にはもう戻らない。もちろん迫害は大変悪いことなので、ないに越したことはないし、今のように堂々とガールズアンドパンツァーのあんこうさんチームTシャツを着て大洗に出かけられる世の中のほうがいいに決まっている。

 だけれど、迫害されていた当のオタクが、昔を懐かしんでしまう程度には、あのころのアニメには活力があったのです。

2016年むぎや祭り

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 二年ぶりに城端へ行ってきた。

 前回と比べて減ってしまった街中のtruetearsのポスターのことを考えると、今このアニメは黄昏時にあるのだろうな。

 今年もひっそりとtruetearsの居場所があって、ありがたいことだと感じた。

 

 今回は金沢駅南砺市井波を走るバスに乗って城端を目指した。

 このオタクラッピングバスに乗車するとき、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまったので、僕もオタクとしてはまだまだなんだと分かった。

 

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 金沢駅からの乗車人数は僕含めて8人程度で、オタクの数は僕を除いて0人だった。

 バスで走ってみると、やはり金沢から南砺はかなり近いことがわかる。同時に鉄道在来線はかなり大回りをしていることがわかるので、関西方面から高岡経由で城端に入るのは、実はあまりお勧めできない。

 このバスは途中城端線の福光駅に停車するのだけれど、今回は終点の井波まで乗ってみた。

 

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 井波は至る所に木彫り細工の趣向が凝らされた街で、人の気配が殆ど無いのでこの木彫り細工達が旅人を出迎えてくれる。コミュ障向けの街だと思った。

 

 井波には瑞泉寺というランドマークがあった。本当に凄いのは伽藍の中なんだけど、あいにく写真撮影が禁止されていて撮ることが出来なかった。なぜこんな田舎にこんな立派な寺があるんだ、という程度には良かったので、富山旅行を企画している人にお勧めです。

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なんでも木彫りで作ってしまう。

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 井波で時間を潰した後はタクシーで城端へと向かった。

 運賃はなぜか4000円もかかった。距離は高々10kmしかないはずなんだけど…

 ソロで井波~城端間移動はお薦めできなかったです。

 

 城端着。

 街中にtruetearsに登場するような踊り衣裳を着込んだ少女たちが徘徊しているこの日の城端は、truetearsオタクなら必ず一度は訪れる聖地なのだと改めて感じた。

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 数年前に初めて来訪したときは無かった(気がする)舞台。いつもは痛車が停車している駐車場が占拠されていて悲しかった。

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 僕の同業者はだいたいこのへん(城端座~PA屋台の周辺)にたむろっていて、祭りに溶け込めていない感じに好感がもてた。

 

 城端の祭りは大人しいと思う。僕の地元(大阪)の祭りはとても乱暴な雰囲気に支配されていた。一方城端の祭りは、神輿でウェイウェイやるわけでもなく、ただ踊り子達が舞台に登壇しては踊り続けるだけの祭りだ。僕のようなオタクにはこの程度がちょうどよい。

 

 ビールを飲んでだらだら踊りを観ていたらいつの間にか夜が来たので帰った。

 結局ブログに紹介できそうな写真をほとんど撮らずに帰ってしまったので、アレな旅行になった感が否めない。

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 帰りは高山を経由して一日泊まって帰った。

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 富山駅構内が大変きれいになっていた。

 このでっかい絵が好き。

岩倉玲音共和国

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 昔のアニメの寂しいところは、そのアニメの聖地が存在しないところだったり、遠い場所の人同士が気軽につながることのできるネットサービスが存在しなかったことでアニメの話題をみんなで幸福に共有できなかった点です。たぶんserial experiments lainという作品を、当時の多くのオタクな人達は孤独に楽しんだのだと思う。なんとlain放送当時の1998年には2chすら無かったという!

 「どこにいたって、人は繋がっているのよ」とレインは言うけれど、当時のlainオタクの人々は深夜のブラウン管テレビの前で孤独に燃えて、その多くはこのSNSの時代を迎えることのないまま冷めてしまったのだと思う。悲しいことです。(もう少ししたら2chが現れるじゃないか、という反論があるかもしれないけど、ぼくの記憶では、2chは話し合いや話題の共有の空間というよりは人々が互いに主義主張を手に殴り合いをしている野蛮な場所で、とてもじゃないけど人が繋がる場所とは思えなかった。)

 先日「visual experiments lain」という本を取り寄せてみた。やはりlainは理解できないんだけど、おおよそ20年前の、昭和と現代が奇妙に混じり合った社会の芳香を感じ取ることができてとてもよかった。おそらく、90年代は今からでは想像しがたいほど人々の関心や趣味が画一的な時代で、なんだかあの頃は本当に人々は繋がっていたんじゃないかと訝る程度にみんな似たような存在だったように思える。なので、そんな世界の深夜のブラウン管からずぶずぶとあのようなアニメが這い出てきたことに奇妙な必然性を感じる。

 ところで、オタクの人々がアニメで得た感情を共有できる場として聖地が存在することはとても幸せなことだと思う。やはりそういった場所は、できるかぎり楽しむほうが、普段孤独の世界に耽溺しているオタクの人ならなおさら良いと思う。

 そしてなにより、現代にはtwitterという素晴らしいツールが存在するので、気軽にオタクの人がオタクの人とつながることができます!

 なので、あんまりこの記事には関係がないんだけど、今度富山の城端という町で年に一度の巡礼祭があるので、ゼロ年代PAワークスファンの人たちはみんなで訪れてほしいと思います!

御冷ミャハの言葉と伊藤計劃氏

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 伊藤計劃という人の小説は、伊藤計劃本人の病とあまりにも直接的に絡み合っているので、彼の病を切り離して彼の作品を考えることはできないと思う。御冷ミャハの言葉は病床から抜け出すことなく息を引き取った伊藤計劃氏の言葉を代弁し、ハーモニーで描かれた高度福祉医療社会は、伊藤計劃氏が夢見た、だけれど同時にそれは現代社会が歪に収斂した姿だったのだろうと思う。

 幸せというのはどこまでも相対的なものだ。癌や糖尿病、心臓疾患といった人間の生命を根本的に脅かす病から人々が解放された社会では、健康であることは幸福に到達するためのベースでしかない。未成年時代の回想部で、制服を着た御冷ミャハが同級生のトァンとキアンにこんなことを語る。

「知ってるトァン…昔の町にはね、わたしたちみたいな子供の体を買ってくれる大人がいたらしいんだ」「もしそんな場所があるなら、想像してみてキアン」「そんな経験の余地がセカイに一つでもあるなら、わたしたちにだって希望が残されているはず。大人になってもいいって思えるはずでしょう」

 世界中の少女が売春と無縁で、病気から解放されて、両親や社会の人々から常に愛情を受ける社会では、人々は純潔や純真といった概念を剥奪される。すべての人々がそれらの幸福を享受すれば、それらを考えることはなんの意味も持たなくなるからだ。飽食に満たされた社会の人々は飢餓の悲惨な状態を想像することができない。国境が厳重に管理された社会では黒死病天然痘といった外来の厄災とは無縁でいられる。人々の健康が保たれる社会では、人々は健康でいられることの幸せを感じなくなる。

 そのような形で人々の幸福が幸福でなくなるように一つずつお膳立てをしていけば、人々は一体どのような存在になるのだろう?という根源的な矛盾を内包した社会に対して、御冷ミャハがどのように感じたかは想像に難くない。

 僕が初めてハーモニーを読んだとき、これは死にゆく者が絶望的な境遇を肯定的にとらえようとするある種の自己弁護の話なのだと思った。だけれど今はそうではないのだと思う。

 自分の意志で脱出することのできない苦しみは、とくに同時に死を突きつけられる場合は、私達若輩者がどれだけ想像しても想像したりないほどに強烈な一撃となって当事者を襲うだろう。そして、優しい人間なら、そのような絶望から多くの人々が解放されることを望むのだと思う。そこで、作家である伊藤計劃氏が行った思考実験がハーモニーという小説を描くことだったのだと思う。

 ハーモニーでは、淡いピンク色に装飾された医療都市よりも、厄災以前から変わらない人々が残るニジェールの砂漠や、バグダードの下町、そしてコーカサス地方の目を見張る大地の景色のほうがよほどあざやかに、生命の息吹が感じられるように描写されている。

 仮に伊藤計劃氏の病が寛解していたら、彼はニジェールバグダードに旅立って、なんだか不思議な旅行記を執筆したり、ネットの規制網をかいくぐってtwitterで実況してくれたりしていたのだろうな。

 

 

 

serial experiments lainはわからないんだけど

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 lain全話の中で最も印象に残っている話は、玲音の姉である岩倉美香が恐慌の末に自我が崩壊してしまう第5話だ。これはlainの世界観がいわば爆発した回で、エヴァでいうところの第壱話に相当すると思う。自衛隊が使徒相手にN2爆弾(その描写から、この爆弾は原爆をモデルにしているのだと思う)を投下、爆撃したが使徒相手には全然効果がなくて、悠然と佇んでいるあの姿を移したカットの次に、なんだかなよなよして頼りない中学生碇シンジが乗員しているエヴァ初号機がやってきて、よくわからない暴力で使徒をコテンパンに倒してしまう話だ。要するに、これはとんでもないアニメだな、と読者にアピールするのに十分な時間と描写を提供したのがエヴァの第壱話であり、lainの第5話なのだと思う。

 lainという作品を覆うあの虚無感は良い。教室でのさりげない学友たちの会話にも、玲音の家族の食事風景にも、玲音がNAVIに向き合うときにも、うっすらと、だけれど確実に死の芳香を感じ取ることができて、メランコリックだけれどどこか甘美な気持ちを私達視聴者に提供している。だから、玲音が雲の中から救世主、或いは神のように出現しても、美香が執拗な「呪い」の言葉に追い詰められて精神が摩耗してしまっても、そこにはやはり死の雰囲気があって、その雰囲気が現実世界とのワイヤード、そして玲音自身をうまく接続している。なお、この超常現象の出現以降、あからさまに、現実世界とワイヤード、そして玲音との曖昧な関係が描写され始める。

 岩倉美香は何者だったのだろう。lainの家族は虚構だったのだけれど、美香自身はそれが虚構だと気が付いていなかったように思う。彼女は玲音が何者か知らなかったし、自分自身を襲う理不尽な「呪い」に、なすすべもなく壊れてしまう。物語の後半、モデムとなってしまった彼女が描写されるのだけれど、彼女は一体「何」と「何」を繋ぐモデムとなってしまったのだろうか。実のところ、彼女の根本的な部分に関する描写は一切なされていない。もしかしたら、彼女自身がこの物語を効果的に演出するためのツールに過ぎなかったのかもしれない。