「観念」

f:id:Isurugi_Yoriharu:20161226211521j:plain

 供養を兼ねて表紙没絵をuploadします。

 

 先日、twitterをぼーっとみていたらAmazonGoのニュースが流れてきて、衝撃を受けた。

 なんで衝撃を受けたかというと、その話の前に枕としてパナソニックが開発した自動レジシステムの話題があって、これは要するにレジを無人化したということなのだが、AmazonGoではそもそもレジそのものを消滅させている。

 

www.nikkei.com

 私がそのとき見たのはNHKだったんだけど、すでにそのニュースが消滅しているので日経記事のほうを引用させていただきます。

AmazonGoはこの記事の最後のほうにちょろっと出てくる。

企業にとって人件費なんてないほうがいいに決まっているのに、しゃちょー殿が「フレンドリーな接客も必要」と言ってるのが厳しい。

 

おそらくパナソニックの技術者もローソンの偉い人もお店で物を買うのはかくあるべしって考えを持っていて、レジを消すなんて発想が想像の範囲外だったのだと思う。

一方アメリカ人はコンビニからレジを無くしてしまった。

 

私はこの話をみて、次のツイートがふと頭によぎった。

 

星新一の小説でそのような一節があったことは露ほども記憶にないのだが、とにかく「抽象的思考」とパナソニックの無人レジの話は妙に共鳴し合うように思う。

要するに、私たちは代金を支払って物をもらう場所に対してある観念を持っていて、その場所をお店と呼んでいるんだけど、この観念の枠内の具体的な作業を効率化する術や技術を持っているのがパナソニックの技術者で、お店という概念をぶち壊して再構築してしまったのがAmazonGoのエンジニアなのだと思う。

 

観念を破ることは容易ではない。というのも、言葉は私達の思考を強く規定していて、観念を破るということは言葉で縛られた思考から一度脱出する必要があるから。

 

月並みな疑問だが、AmazonGoのエンジニアとパナソニックの技術者は一体何が違うのだろう。

 

ところで、ほろびゆく日本語、という観点からはこの人が面白い記事を書いている。

脱線するがこの人の記事はどれも面白いのでみなさんにも是非読んでもらいたい。

gamayauber1001.wordpress.com

本当はもっと当記事にフィットする話があったのだけれど、どこにあるのかわからなくなってしまった。

 

この人の話を真と仮定するなら、単一民族の衰退とともに色褪せてゆく日本語と、様々な文化背景を持った人々が流入しつづける英語の世界では、どちらの将来が明るいかは、目に見えているように思える。

コミケ(C91)_serial experiments lain合同本_サークル参加告知

f:id:Isurugi_Yoriharu:20161220225006j:plainC

 

twitterではさんざん告知したけどブログでも改めてお知らせします。

 

C91金曜日(12/30)東地区Q41aに私のサークルが出店します。

サークル名:東西珈琲部

新刊:WELCOME/TO/WIRED! - serial experiments lain合同感想本

執筆者6名、64P

 

なかなか読み応えのある本に出来上がったとおもうのでlainファンの方、lainを知りたい方、ぜひとも当サークルにお越しください!

 

※ちなみになぜ今更広告をがんばっているかというと、ついさっきみた当サークルのカタロムになんにも情報が掲載されておらず、箸にも棒にもかからない状態なことを知ったからです。どうやら申込時の登録に漏れがあったらしい。

 

lainの本が欲しい人の元になるべく情報を届けたいと思いますのでよろしくお願いします!

 

参考:サークル詳細

f:id:Isurugi_Yoriharu:20161220225638p:plain

 

2017/4/5追記:

現在COMIC ZIN様にて同人誌の取り扱いをしております!

興味のある方は是非ともご購入いただきたく。よろしくお願いします。

 

不出来なデューク

f:id:Isurugi_Yoriharu:20161117234804j:plain

 ブログを更新していないな、と思ったので義務感に駆られてブログを書きにきました。

※以下lainの話題ではないです。

 

 文化は迫害されるうちが花、なのかもしれないなと思った。オタクが迫害されていた2000年台前半には既に心身ともにオタクとなっていた高校生の私は本当に辛い時代を過ごしたのだけれど、今でも頻繁に思い返すのはその頃に視聴していた作品達である。たとえば04年には撲殺天使ドクロちゃんという、ある種の先天的な機能障害を持つ人間達をターゲットに絞ったとしかおもえない本当に酷いギャグアニメがあって、私はそれが大好きだった。今にして思えば、あのアニメは商売根性逞しくして作られた作品では決してない。当たればラッキー程度にしか考えていなかったんだけれど、その代わりナード的感性を包み隠さずに投入されたザ・オタク作品だったのだろう。

 一部の人間にしかウケない作品がいい、と言っているのではないです。迫害されるうちは人気がないから、変に権威というものが育っていない。オタクがオタクを楽しませようとしている。その雰囲気が私はいいと思う。

 迫害されたオタク達は、喧嘩するということがそれほどなかった気がする。なんせ迫害されているのだから、仲間同士でいがみ合っていても自分達が苦しくなるだけなので。

 しかし2006年ぐらいから、迫害されるオタクという構造が崩壊しはじめて、なぜだかわからないけどオタク文化は徐々に世間に受け入れられ、今では、特に若い世代は殆どオタク文化に抵抗を持っていない。きみの名は。という邦画を観に行った人ならわかると思うんですが、梅田のHEP5や難波の千日前を縄張りにしてそうなヤンキーなお兄さんお姉さん、イケイケなリア充系高校生が当たり前のように劇場に足を運んでいます。

 彼らの流入が許せないわけでもない。やはり文化は大勢の人間で楽しんだほうが絶対に良い。

 じゃあなにがだめかというと、アニメ界隈の人間が増えた結果、オタクの中にもいろんな分派が現れてきて、すごく些細な感性の違いを発端としてお互いがお互いを殴る世界ができてしまったこと。

 原初キリスト教ローマ帝国の国教となり、西欧社会の文化と融合して大勢の人に受け入れられていくうちに教会の東西分裂や権威の象徴であるローマ教皇が発生した史実が物語るように、ある共同体の人口が増えればそれだけややこしいいがみ合いが発生する。

 人間には似ている2つの存在の些細な違いをついつい気にしてしまう性質がある。そしてある場合には、些細な違いを過大に評価してしまって、それが喧嘩の元になってしまう。そこに権威の論理や数の暴力が加われば、物事はより一層ひどい方向に進んでしまう。

 こういう争いはあらゆるところに存在して、多くの場合は解決されずに膠着状態に陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 オタクが迫害されていた時代にはもう戻らない。もちろん迫害は大変悪いことなので、ないに越したことはないし、今のように堂々とガールズアンドパンツァーのあんこうさんチームTシャツを着て大洗に出かけられる世の中のほうがいいに決まっている。

 だけれど、迫害されていた当のオタクが、昔を懐かしんでしまう程度には、あのころのアニメには活力があったのです。

岩倉玲音共和国

f:id:Isurugi_Yoriharu:20160912213752j:plain

 

 昔のアニメの寂しいところは、そのアニメの聖地が存在しないところだったり、遠い場所の人同士が気軽につながることのできるネットサービスが存在しなかったことでアニメの話題をみんなで幸福に共有できなかった点です。たぶんserial experiments lainという作品を、当時の多くのオタクな人達は孤独に楽しんだのだと思う。なんとlain放送当時の1998年には2chすら無かったという!

 「どこにいたって、人は繋がっているのよ」とレインは言うけれど、当時のlainオタクの人々は深夜のブラウン管テレビの前で孤独に燃えて、その多くはこのSNSの時代を迎えることのないまま冷めてしまったのだと思う。悲しいことです。(もう少ししたら2chが現れるじゃないか、という反論があるかもしれないけど、ぼくの記憶では、2chは話し合いや話題の共有の空間というよりは人々が互いに主義主張を手に殴り合いをしている野蛮な場所で、とてもじゃないけど人が繋がる場所とは思えなかった。)

 先日「visual experiments lain」という本を取り寄せてみた。やはりlainは理解できないんだけど、おおよそ20年前の、昭和と現代が奇妙に混じり合った社会の芳香を感じ取ることができてとてもよかった。おそらく、90年代は今からでは想像しがたいほど人々の関心や趣味が画一的な時代で、なんだかあの頃は本当に人々は繋がっていたんじゃないかと訝る程度にみんな似たような存在だったように思える。なので、そんな世界の深夜のブラウン管からずぶずぶとあのようなアニメが這い出てきたことに奇妙な必然性を感じる。

 ところで、オタクの人々がアニメで得た感情を共有できる場として聖地が存在することはとても幸せなことだと思う。やはりそういった場所は、できるかぎり楽しむほうが、普段孤独の世界に耽溺しているオタクの人ならなおさら良いと思う。

 そしてなにより、現代にはtwitterという素晴らしいツールが存在するので、気軽にオタクの人がオタクの人とつながることができます!

 なので、あんまりこの記事には関係がないんだけど、今度富山の城端という町で年に一度の巡礼祭があるので、ゼロ年代PAワークスファンの人たちはみんなで訪れてほしいと思います!

serial experiments lainはわからないんだけど

f:id:Isurugi_Yoriharu:20160723104601j:plain

 lain全話の中で最も印象に残っている話は、玲音の姉である岩倉美香が恐慌の末に自我が崩壊してしまう第5話だ。これはlainの世界観がいわば爆発した回で、エヴァでいうところの第壱話に相当すると思う。自衛隊が使徒相手にN2爆弾(その描写から、この爆弾は原爆をモデルにしているのだと思う)を投下、爆撃したが使徒相手には全然効果がなくて、悠然と佇んでいるあの姿を移したカットの次に、なんだかなよなよして頼りない中学生碇シンジが乗員しているエヴァ初号機がやってきて、よくわからない暴力で使徒をコテンパンに倒してしまう話だ。要するに、これはとんでもないアニメだな、と読者にアピールするのに十分な時間と描写を提供したのがエヴァの第壱話であり、lainの第5話なのだと思う。

 lainという作品を覆うあの虚無感は良い。教室でのさりげない学友たちの会話にも、玲音の家族の食事風景にも、玲音がNAVIに向き合うときにも、うっすらと、だけれど確実に死の芳香を感じ取ることができて、メランコリックだけれどどこか甘美な気持ちを私達視聴者に提供している。だから、玲音が雲の中から救世主、或いは神のように出現しても、美香が執拗な「呪い」の言葉に追い詰められて精神が摩耗してしまっても、そこにはやはり死の雰囲気があって、その雰囲気が現実世界とのワイヤード、そして玲音自身をうまく接続している。なお、この超常現象の出現以降、あからさまに、現実世界とワイヤード、そして玲音との曖昧な関係が描写され始める。

 岩倉美香は何者だったのだろう。lainの家族は虚構だったのだけれど、美香自身はそれが虚構だと気が付いていなかったように思う。彼女は玲音が何者か知らなかったし、自分自身を襲う理不尽な「呪い」に、なすすべもなく壊れてしまう。物語の後半、モデムとなってしまった彼女が描写されるのだけれど、彼女は一体「何」と「何」を繋ぐモデムとなってしまったのだろうか。実のところ、彼女の根本的な部分に関する描写は一切なされていない。もしかしたら、彼女自身がこの物語を効果的に演出するためのツールに過ぎなかったのかもしれない。

serial experiments lainはよくわからない

f:id:Isurugi_Yoriharu:20160709191958j:plain

 serial experiments lainというアニメは、実のところさっぱりよくわからない。  

 wikipediatwitterのアニメオタクな人々の評論を読むとなんとなく作品のストーリーやテーマは理解できるんだけど、それが実質的な作品の理解には繋がらなくて、頭の中でモヤモヤという気持ちだけが空回りする。何だか大学で学んだ理工学によく似ている。だから僕はこの作品が嫌いだとかいう主張をしたいわけではなくて、僕はどちらかというとこのアニメが好きなのだと思う。5話~10話は突然観たくなることがあるのでよく視聴するし、何よりもlainに対しては奇妙なぐらい「知りたい、理解したい」という気持ちが強い。

 lainを観ていると自分が精神障碍者になったような気分になる。岩倉玲音の言動はコロコロ変わって一貫性が全くないし、正体が良く掴めない謎の組織に終始付き纏われる展開にうんざりする。玲音の家族は造り物で、つまり玲音は監視されていたわけで、これを含めたlainの展開はなんだかトゥルーマン・ショー的なんだけど、かといってそこにトゥルーマン・ショー程わかりやすい狂気があるわけでなく、その文脈は結局謎の組織によって回収されてしまうのでモヤモヤしたままだ。

 じゃあ一体何が面白いのかといわれると困る。結局もう一度みても釈然としない気持ちがあるだけだろうし、理解して楽しむ性質のアニメではないのかもしれない。

 それにしてもこのアニメは、どうやって言葉で説明してもなんだかチープな印象の作品にしかならないのが凄いと思う。作品自体が言語化を拒絶しているかのようだ。そう考えるとlainエヴァに似ていると思う。ただ、エヴァと大きく異なる点は、あちらは大いに受けて商業的に成功したけれど、こちらはマイナーなアニメどまりで、すでに放送から20年近く経過したせいで忘れられそうになっている、という所だろうか。

 もしかしたらこのアニメの魅力は、安倍𠮷俊の幻想的なキャラデザのおかげかもしれない。あるいは、そもそもそこに魅力なんてなくて、商品の値段が高ければなんだか高級そうに見える心理トリックと同じで、ただ単に当時の製作者達の衒学趣味的なお遊びに付き合わされているだけなのかもしれない。

石動乃絵 in Thailand(2)

 バンコク二日目。

 丁子の匂いは居変わらず部屋に張り付いたままだった。取り敢えず荷物を詰め込んで、カウンターに行ってチェックアウトをしようとしたらやたらと時間がかかった(だいたい10分ぐらい。)このとき受付のにーちゃんがどこかに電話していたので、恐らく泊まっていた部屋の中を検められていたのではないかと思う。色々汚さなくてよかった。

 

 通りに出ると初めてのバンコクの朝を体験した。日本の朝と違って、とても皆ゆっくりしていた。太陽はすっかり日本の夏日の様相で、ちょっと歩くたびに汗が噴き出して水を補給したくなった。

 

 昨日の深夜に乗ったタクシーのオッサンに遠回りルートを連れまわされたのでその時に王宮や寺院の位置を確認することができて、今日はそこに行ってみようと思いカオサン通りから王宮を目指した。

・・・のだけれど道に迷ってしまい途中で見つけたよくわからない広場やら博物館に入って時間を潰した。博物館の中は信じられないぐらい仏像ばかりだった。

ここらへんで気が付き始めたのだが、バンコクの人々はゴリゴリのBuddhistである。大通りには至る所に仏教のモニュメントが立ち並び、寺院もそこら中にある。そしてモニュメントでは必ず一人は炎天下の中で熱心に拝んでいる。線香のにおいも至る所で嗅ぐことができた。こういう雰囲気は心地よかった。

 

 王宮の周りは旧市街と呼ばれるエリアらしくて、見るからにビンボーな人々が屋台で飯を食ったり昼寝したりしていた。客引きはとにかく多くて、だいたい5分に1回は誰かに話しかけられた(大半はタクシーかトゥクトゥクの運転手)。日本人は海外では大体チャイニーズに勘違いされるものらしいけど、僕の場合はたいてい日本語か英語で話しかけられた(チャイナ語で対応されたのは空港内だけ)。タイ人のようなアジア系には、例えば日本人とチャイニーズの外見上の些細な違いが見分けられるものなのかもしれない。

 

 結局王宮を見つけることができず、ヘロヘロになったのでタクシーで新市街(Chit Lom)へ向かうことにした。このタクシーも信じられない遠回りルートをチョイスしてきて、この国のタクシーに乗るのがすでに嫌になり始めた。

 

 新市街は旧市街と比べると恐ろしく発展していて、日本で例えるなら新今宮駅前と大阪駅前ぐらいの差があった。デパートの入り口には必ず検問があって、観光客と身なりのよさそうな現地人だけを選別して中へ人を入れているように見えた。

デパートは基本的に日本のと同じ清潔さが保たれていた。ただ奇妙なことに、たとえば飲食店のとなりに服屋や携帯電話のストア、電化製品店、ゲーマー用ネットカフェが立ち並んでいて、なんだかちぐはぐな、奇妙な感じだった。

あと旧市街のほうはとにかく白人が多かったけどこちらではアジア系の客が多かった。客の雰囲気とかも日本のそれで、なので日本にいるのとあんまり変わらない心地よさがあって、これはいかんな~と感じた。

デパートの中で中華料理店に入った。味はとにかく辛くて、生の唐辛子をそのまま材料として使っていた。あとタイ米が不味くてつらかった。飲み物が甘いのもいただけなかった。

 

 この地域のホテルは高いらしいのでRatchathewiまで移動した。

なんだけど結局昔ながらの高級感が漂うホテル(日本のホテルメトロポリタンみたいな感じ)にチェックインした。ここでのカウンターの応対はなかなか苦労した。ただ2日程度泊まりたいという要求をしているだけなのになんかいろいろ言われて結局ダブルベッドのある部屋に通された。取り敢えず冷蔵庫の中に入っていたビールを飲もうと思ったら栓抜きがなくて、次に浴槽を使おうと思ったら浴槽の詮がぶっ壊れていた。もしかしたら先のカウンターマンはこのことを伝えたかったのかもしれない。

 

 車がひっきりなしに走る大通りの屋台で晩飯を食った。排気ガスが充満している中で食事をするのはなかなか風情があると思ったからだ。屋台といっても大体70人ぐらいは収容できる大規模なところで、大勢の現地人が食事をしていただけあって良かった。さっきまずいと愚痴をこぼしたタイ米も、チャーハンにするとかなりおいしくなることがわかった。あとネムの木の葉やらレモングラスやらよくわからん木の根やらが入った魚のスープが、いい感じにエスニックしてて滅茶苦茶おいしかった。

 屋台では色々面白いことがあった。まず乞食が物乞いをしにやってくる。片足を膝から無くした老人、何かよくわからないオーディオを背負って歌を歌っている青年と老婆のペア、体のどこが悪いのかよくわからないオッサン。10分おきぐらいにやってきて、この国には社会保障がろくに無いのだろうか、と想像した。

 シンハ―・ビールを何本か飲んでベロベロでいい気持になっていたら、厨房から痩せた猫が出てきた。この猫は常に痙攣していて、首を上下にユラユラ動かしていた。明らかに神経系統に疾患がある様相で、これはかなり怖かった。暫く客の足元を行ったり来たりしていた猫は、さりげなく店員に担がれて厨房へと戻っていった。

 

 ホテルの部屋に戻った。クーラーを消して寝ようとおもったらそもそもクーラーのスイッチがなくて、部屋に入ると勝手に冷房がかかる仕様になっているらしい。おかげで南国にいるにもかかわらず寒い一夜を過ごすことになった。

 

 なんかあんまり現地の人の話をできなかったから次はそっちにもっとフォーカスしてこの記事のつづきを書こうと思います。