serial experiments lainはわからないんだけど

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 lain全話の中で最も印象に残っている話は、玲音の姉である岩倉美香が恐慌の末に自我が崩壊してしまう第5話だ。これはlainの世界観がいわば爆発した回で、エヴァでいうところの第壱話に相当すると思う。自衛隊が使徒相手にN2爆弾(その描写から、この爆弾は原爆をモデルにしているのだと思う)を投下、爆撃したが使徒相手には全然効果がなくて、悠然と佇んでいるあの姿を移したカットの次に、なんだかなよなよして頼りない中学生碇シンジが乗員しているエヴァ初号機がやってきて、よくわからない暴力で使徒をコテンパンに倒してしまう話だ。要するに、これはとんでもないアニメだな、と読者にアピールするのに十分な時間と描写を提供したのがエヴァの第壱話であり、lainの第5話なのだと思う。

 lainという作品を覆うあの虚無感は良い。教室でのさりげない学友たちの会話にも、玲音の家族の食事風景にも、玲音がNAVIに向き合うときにも、うっすらと、だけれど確実に死の芳香を感じ取ることができて、メランコリックだけれどどこか甘美な気持ちを私達視聴者に提供している。だから、玲音が雲の中から救世主、或いは神のように出現しても、美香が執拗な「呪い」の言葉に追い詰められて精神が摩耗してしまっても、そこにはやはり死の雰囲気があって、その雰囲気が現実世界とのワイヤード、そして玲音自身をうまく接続している。なお、この超常現象の出現以降、あからさまに、現実世界とワイヤード、そして玲音との曖昧な関係が描写され始める。

 岩倉美香は何者だったのだろう。lainの家族は虚構だったのだけれど、美香自身はそれが虚構だと気が付いていなかったように思う。彼女は玲音が何者か知らなかったし、自分自身を襲う理不尽な「呪い」に、なすすべもなく壊れてしまう。物語の後半、モデムとなってしまった彼女が描写されるのだけれど、彼女は一体「何」と「何」を繋ぐモデムとなってしまったのだろうか。実のところ、彼女の根本的な部分に関する描写は一切なされていない。もしかしたら、彼女自身がこの物語を効果的に演出するためのツールに過ぎなかったのかもしれない。

serial experiments lainはよくわからない

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 serial experiments lainというアニメは、実のところさっぱりよくわからない。  

 wikipediatwitterのアニメオタクな人々の評論を読むとなんとなく作品のストーリーやテーマは理解できるんだけど、それが実質的な作品の理解には繋がらなくて、頭の中でモヤモヤという気持ちだけが空回りする。何だか大学で学んだ理工学によく似ている。だから僕はこの作品が嫌いだとかいう主張をしたいわけではなくて、僕はどちらかというとこのアニメが好きなのだと思う。5話~10話は突然観たくなることがあるのでよく視聴するし、何よりもlainに対しては奇妙なぐらい「知りたい、理解したい」という気持ちが強い。

 lainを観ていると自分が精神障碍者になったような気分になる。岩倉玲音の言動はコロコロ変わって一貫性が全くないし、正体が良く掴めない謎の組織に終始付き纏われる展開にうんざりする。玲音の家族は造り物で、つまり玲音は監視されていたわけで、これを含めたlainの展開はなんだかトゥルーマン・ショー的なんだけど、かといってそこにトゥルーマン・ショー程わかりやすい狂気があるわけでなく、その文脈は結局謎の組織によって回収されてしまうのでモヤモヤしたままだ。

 じゃあ一体何が面白いのかといわれると困る。結局もう一度みても釈然としない気持ちがあるだけだろうし、理解して楽しむ性質のアニメではないのかもしれない。

 それにしてもこのアニメは、どうやって言葉で説明してもなんだかチープな印象の作品にしかならないのが凄いと思う。作品自体が言語化を拒絶しているかのようだ。そう考えるとlainエヴァに似ていると思う。ただ、エヴァと大きく異なる点は、あちらは大いに受けて商業的に成功したけれど、こちらはマイナーなアニメどまりで、すでに放送から20年近く経過したせいで忘れられそうになっている、という所だろうか。

 もしかしたらこのアニメの魅力は、安倍𠮷俊の幻想的なキャラデザのおかげかもしれない。あるいは、そもそもそこに魅力なんてなくて、商品の値段が高ければなんだか高級そうに見える心理トリックと同じで、ただ単に当時の製作者達の衒学趣味的なお遊びに付き合わされているだけなのかもしれない。

石動乃絵 in Thailand(2)

 バンコク二日目。

 丁子の匂いは居変わらず部屋に張り付いたままだった。取り敢えず荷物を詰め込んで、カウンターに行ってチェックアウトをしようとしたらやたらと時間がかかった(だいたい10分ぐらい。)このとき受付のにーちゃんがどこかに電話していたので、恐らく泊まっていた部屋の中を検められていたのではないかと思う。色々汚さなくてよかった。

 

 通りに出ると初めてのバンコクの朝を体験した。日本の朝と違って、とても皆ゆっくりしていた。太陽はすっかり日本の夏日の様相で、ちょっと歩くたびに汗が噴き出して水を補給したくなった。

 

 昨日の深夜に乗ったタクシーのオッサンに遠回りルートを連れまわされたのでその時に王宮や寺院の位置を確認することができて、今日はそこに行ってみようと思いカオサン通りから王宮を目指した。

・・・のだけれど道に迷ってしまい途中で見つけたよくわからない広場やら博物館に入って時間を潰した。博物館の中は信じられないぐらい仏像ばかりだった。

ここらへんで気が付き始めたのだが、バンコクの人々はゴリゴリのBuddhistである。大通りには至る所に仏教のモニュメントが立ち並び、寺院もそこら中にある。そしてモニュメントでは必ず一人は炎天下の中で熱心に拝んでいる。線香のにおいも至る所で嗅ぐことができた。こういう雰囲気は心地よかった。

 

 王宮の周りは旧市街と呼ばれるエリアらしくて、見るからにビンボーな人々が屋台で飯を食ったり昼寝したりしていた。客引きはとにかく多くて、だいたい5分に1回は誰かに話しかけられた(大半はタクシーかトゥクトゥクの運転手)。日本人は海外では大体チャイニーズに勘違いされるものらしいけど、僕の場合はたいてい日本語か英語で話しかけられた(チャイナ語で対応されたのは空港内だけ)。タイ人のようなアジア系には、例えば日本人とチャイニーズの外見上の些細な違いが見分けられるものなのかもしれない。

 

 結局王宮を見つけることができず、ヘロヘロになったのでタクシーで新市街(Chit Lom)へ向かうことにした。このタクシーも信じられない遠回りルートをチョイスしてきて、この国のタクシーに乗るのがすでに嫌になり始めた。

 

 新市街は旧市街と比べると恐ろしく発展していて、日本で例えるなら新今宮駅前と大阪駅前ぐらいの差があった。デパートの入り口には必ず検問があって、観光客と身なりのよさそうな現地人だけを選別して中へ人を入れているように見えた。

デパートは基本的に日本のと同じ清潔さが保たれていた。ただ奇妙なことに、たとえば飲食店のとなりに服屋や携帯電話のストア、電化製品店、ゲーマー用ネットカフェが立ち並んでいて、なんだかちぐはぐな、奇妙な感じだった。

あと旧市街のほうはとにかく白人が多かったけどこちらではアジア系の客が多かった。客の雰囲気とかも日本のそれで、なので日本にいるのとあんまり変わらない心地よさがあって、これはいかんな~と感じた。

デパートの中で中華料理店に入った。味はとにかく辛くて、生の唐辛子をそのまま材料として使っていた。あとタイ米が不味くてつらかった。飲み物が甘いのもいただけなかった。

 

 この地域のホテルは高いらしいのでRatchathewiまで移動した。

なんだけど結局昔ながらの高級感が漂うホテル(日本のホテルメトロポリタンみたいな感じ)にチェックインした。ここでのカウンターの応対はなかなか苦労した。ただ2日程度泊まりたいという要求をしているだけなのになんかいろいろ言われて結局ダブルベッドのある部屋に通された。取り敢えず冷蔵庫の中に入っていたビールを飲もうと思ったら栓抜きがなくて、次に浴槽を使おうと思ったら浴槽の詮がぶっ壊れていた。もしかしたら先のカウンターマンはこのことを伝えたかったのかもしれない。

 

 車がひっきりなしに走る大通りの屋台で晩飯を食った。排気ガスが充満している中で食事をするのはなかなか風情があると思ったからだ。屋台といっても大体70人ぐらいは収容できる大規模なところで、大勢の現地人が食事をしていただけあって良かった。さっきまずいと愚痴をこぼしたタイ米も、チャーハンにするとかなりおいしくなることがわかった。あとネムの木の葉やらレモングラスやらよくわからん木の根やらが入った魚のスープが、いい感じにエスニックしてて滅茶苦茶おいしかった。

 屋台では色々面白いことがあった。まず乞食が物乞いをしにやってくる。片足を膝から無くした老人、何かよくわからないオーディオを背負って歌を歌っている青年と老婆のペア、体のどこが悪いのかよくわからないオッサン。10分おきぐらいにやってきて、この国には社会保障がろくに無いのだろうか、と想像した。

 シンハ―・ビールを何本か飲んでベロベロでいい気持になっていたら、厨房から痩せた猫が出てきた。この猫は常に痙攣していて、首を上下にユラユラ動かしていた。明らかに神経系統に疾患がある様相で、これはかなり怖かった。暫く客の足元を行ったり来たりしていた猫は、さりげなく店員に担がれて厨房へと戻っていった。

 

 ホテルの部屋に戻った。クーラーを消して寝ようとおもったらそもそもクーラーのスイッチがなくて、部屋に入ると勝手に冷房がかかる仕様になっているらしい。おかげで南国にいるにもかかわらず寒い一夜を過ごすことになった。

 

 なんかあんまり現地の人の話をできなかったから次はそっちにもっとフォーカスしてこの記事のつづきを書こうと思います。

石動乃絵 in Thailand

ゴールデンウィーク中に石動乃絵はタイ王国へ行ってきたのでレポするね!(初日)

 

・香港空港経由、8時間かけてバンコクへ。香港空港に到着すると、霧の向こうに皆同じ高さ同じ格好の高層ビルが整然と並んでいて、計画経済っぽいな~さすが中国と感心する。そうしているうちにさっそくスマホをLostする。盗られたか、なくしたか定かではないけれど海外の洗礼を浴びた気分に陥る。取り敢えず初めて海外に来たのでクレジットカードでATMからお金をおろせるか試してみたが謎のエラーを吐くだけで埒が明かない。ろくに現金を持ってきていないのに。この辺ですでに泣きそうになる。

 

バンコク行き飛行機搭乗。席がよくわからなくてキョロキョロしてたら隣の中華系のオッサンが航空券見せろという。見せたら席を教えてくれた。日本では体験できない親切に感動する。

 

バンコク国際空港(スワンナプーム)到着。じんわりと熱い。トイレの便器の形とか、通路の様子とかびみょ~に日本の常識に則って作られていなくて面白かった。携帯電話の回線を止めるためにネカフェに入るが、英語がろくに聞き取れないためカウンターで揉める。カウンターのお姉さんが心底バカにしたような顔をするが不思議と不快感は無かった。タイのネカフェには電話が置いてあるのだけれどこれがろくに繋がらない。隣でポーランド人のオッサンが電話つながらないせいでキレていた。

 

・空港から電車に乗ってバンコク市街地へ。電車を降りた途端、蒸し暑い空気に押しつぶされそうになった。とりあえず改札外に出ると、その辺に酒瓶が転がっていて南国っぽい植物が大量に生えていて電柱から垂れている電線が絡まったスパゲティみたいで本格的に海外の息吹を感じた。不良の若者達がバイクをふかしているそばを通り過ぎる。コワイ。取り敢えずタクシーを拾ってホテルがある通りまで行こうとすると、タクシーのオッサンがかなり不良系で行き先を告げるとなぜかキレられた。あとで知ったのだけれど、どうやらタイ語はイントネーションが死ぬほど重要で、抑揚が間違っていたら別の意味の単語になるので全く通じなくなるらしい。日本語ではない全く別の言語体系の洗礼。

 

・ホテルに泊まるためカオサン通りという有名なバックパッカー街に行った。市街地の中だというのに、信じられないほど大音量の爆音が通りに並んでいるディスコ、バーの中から聞こえてくる。大量の白人がそこら辺を歩いていている。そのほか、現地人、中国人、インド人、片足を無くしたオッサン、乞食がぐちゃぐちゃに混じり合って通りを歩いている。初めはビビったが、しばらくふらついていると、日本よりずっと歩きやすいな、と思った。誰も焦っていないし、周りのことをちゃんと見ている。スマホを歩きながら操作している人間はいない。そういうことを思っていると白人の男と肩をぶつけた。Sorryという一言が聞こえる。海外の人間はなかなか謝らないと日本ではさんざんきかされたのに。次にかかとに靴をぶつけられた。振り返ると190cmの黒人の男が立っていてこの男もSorryと発音した。

 

・ホテルが一向に見つからないのでその辺の現地人に訪ねてみたら一応指を挿してくれて場所を教えてくれる。けどその先には全然見つからなくて別の人にきいてみると全く別の方向を指さす。それを5回ぐらい繰りかえして、なんだかこの状況はフランツ・カフカの小説にありそうだな、と思ってちょっと楽しかった。取り敢えずバーに入ってご飯(タイ米チャーハンとトムヤムクン)とビールを注文した。滅茶苦茶パクチーの味がした。ビールは薄いけど美味しかった。熱帯の地域ではこのぐらいの濃度がちょうどいいのかもしれない。白人が楽しそうに騒いでる姿を見ながら休憩した。食事後、通りで見つけたセブンイレブンに寄ったらATMがあってので試しに使ってみたら無事お金をおろすことができてほっとする。コンビニから出た後は、諦めて通りを歩いている最中で見つけたホテルで一泊過ごすことにしようと思い立つ。ホテルのカウンターは女のひとだった。仏に拝むようなポーズで両手を合わせて挨拶してくれた。どうやらタイではこれがオーソドックスなスタイルらしい。これは一度タイで本物のしぐさを見ていただきたいのだが、はっきり言ってクソ萌えます。

 

・ホテルの一室は丁子のにおいであふれていた。浴室のドアは滅茶苦茶重たくて、鍵がぶっ壊れていた。シャワーを浴びている最中に水を口に含んでみたが、なんだか鉄っぽい妙な味がした。なぜか浴室と寝室内がフラットに地続きで、水を出しっぱなしにしていると寝室まで水浸しになってしまいそうで不安だった。ベッドに寝転がると死ぬほど疲れていることにようやく気が付いた。

 

2日目以降は後日。

湯浅比呂美に学ぶグリザイユ画法

 

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こっちはグレースケール

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僕は湯浅比呂美を憎んでいるのだけれど、バスケをしている比呂美だけは本当に好きなんだ…

 

 かわいらしいヒヨコを模って作ったスイートポテトの生地をオーブンで加熱してみたらみるも無残なヒヨコの焼死体が出来上がってしまい笑いを誘うツイートをみて、これは人の才能の本質を示す良エピソードだなと思った。かわいらしいヒヨコ型の焼き菓子をつくりたい場合、生地の過熱による見た目、味、食感、容積の変化を正確に予測しなければならないことは考えれば当たり前の話なのだけれど私たちはこの当たり前の事実を多くの場合忘却してしまう。
 基本的にMakingやActionと呼ぶことのできる人々の殆どすべての活動の質の向上にこの予測は必要不可欠なスキルだ。それは絵を描くことにしても小説を書くことにしても水泳にしても演劇にしても医療にしても会社で書類を作成することにしてもあらゆる場面で必要だ。
 頭の中で展開される作業の結果と実際に手や体を動かして得られる成果の間には大きな断絶が存在する。特にその道の初心者の場合それは致命的なレベルの隔たりで、私たちはこの隔たりを少しずつ狭めることによって自分の思い通りのMakingあるいはActionを得ることができる。
 ここで大切な点は初心者である間は隔たりを簡単に狭めることができるのだけれど、頭の中の現実と実際の現実の差分が小さくなってきてから隔たりは簡単に狭められなくなる。これはちょうど物差しで正確に10cmの長さを測ろうとするとき、1cmのレベルのずれから0.5cmのずれのレベルまで補正することは至極簡単な話なのに0.1mmから0.01mmのずれを補正することは非常に難儀する事実に似ていて、この断裂を超えるには誤差を低減させるためのモデルを現実に即した形で構築して理論的に攻める方法をとる必要がある。
 ただ、幸か不幸か、現実は僕たちが考えているよりは間違いなくずっと複雑なので、このような単純な課題に対してすら色んな局所解が殆ど無限に存在するのだと思う。そういう意味で、最も大切な考えは現実を曲解せずに素直に、謙虚に客観視しつづける視点なのだろう。

2015年コミケットスペシャル(春コミ)

毎年の夏と冬にコミケットというキモヲタのための一大祭典が催されることは皆様の周知の通りだと思うが、5年に一度、特例として春にコミケット番外が開催されることはそれほど有名でないかもしれない。

 

社会人の有り余る財力に頼れば東京に行くことはわけはないので、行ってきた。

スペシャルということで、いつもとは違う雰囲気の会場だった。

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写真にはとってないけど、なんか出店みたいな企画が多くて面白かった。

それにしても、幕張の会場はビックサイトの雰囲気にすごく似ている。

 

 

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一日目の昼に抜けてしまったのが本当に悔やまれる。

中夜祭ではアニメ界隈のかなり実力のある音楽ユニットが集まってライブを披露していたらしい。私はチケットなんて到底余ってないと観念して早々に離脱した。実際は当日券が発券されていたというのに。

物事は初めからあきらめてはいけないということと、暫く我慢して待つということを学んだ。それらは時として大きな効果を発揮する。

 

 

 

 

 

 

 

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帰りはマグリット展に寄った。

同じモチーフがリフレインして様々な作品にパワーアップして出現してくる様は圧巻であった。と同時に、彼ら天才もやはり試行錯誤して、自らの作品を高みへと持ち上げていくわけである。それも徐々に。

 

マグリットは、とてもわけのわからない作品を描いた人なのだけれど、わけがわからないというのは、あくまで全体を見渡したときだけであって、絵画を分解して細部を点検しはじめると、それぞれの作品を構成するパーツ自体は至極まっとうで、現物を忠実に再現していることに気が付く。(たとえば、鳥の形にきりとられた空に浮かぶ雲)。

だけれどそんな当たり前なものが、ちょっと妙な位置にあったりするだけで、とんでもない相乗効果を生んでしまう。そうして生まれた、このわけのわからなさは私たちを何時間と引き込んでしまう。

12時ぐらいに入場して、実際に出口にたどり着いたのは17時。入場料1600円でこれだけの作品群を拝めるのは、とても素晴らしいことのように思えた。

「光の帝国」「人間の条件」は、何時間でも眺めていられる。まだ行ってない人はぜひとも六本木に足を運びましょう。